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牧師の説教ノート(7月28日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙14章20〜25節

1.時代背景、舞台、文脈背景

1.時代背景、舞台、文脈背景

〇概要
 19節までの続きである。
 コリント教会の異言が、教会の徳を建て上げるどころか、寧ろその妨害にすらなっている状況を鑑みて、パウロがそれら「異言もどき」が全くの偽物であるということをここまでで明らかにした。
 続けて、20節からはパウロが考えるところの異言の役割を語り、教会を建て上げることについては預言の方が如何に役立つかということについてを教えている。

 ここでパウロが言う所によれば、異言は未信者の為のしるしであり、文脈から推し量るに、未信者から真理を隠し、ふるい落とす為に用いられる賜物であるように考えられる。即ち、信じて聞こうとする人には解き明かされ、聞こうとしない人には何を言っているのかわからないようになる。そのような類の賜物であるとパウロは考えていたようだ。

 勿論、パウロが言っているこのことは、異言という賜物がもつ役割の一側面に過ぎず、これが全てと言い切ってしまうのは行き過ぎであると思われる。パウロ自身は嫌っているが、異言と言われるものが齎す「効能」は、他にもいろいろあるだろうと考えられる。
 パウロが言う所によれば、異言は必ず解き明かせるものでなければならないが、敢えて解き明かしをせずに祈る時にも恵みが齎されるかもしれない。それは、考えて思い悩むのに疲れた兄姉にとって、知性を休ませ、霊だけで祈る安息の時となるだろうからである。

 パウロの言っている、「未信者のためのしるし」は、共通の類似点を持つものとして、「たとえ話」や「黙示」の賜物も挙げられるかもしれない。どれも、その役割は真にキリストに近づこうとする者だけに真理が明かされる為の賜物であり、未信者や興味の無い者にとっては、意味をなさない言葉の羅列にしか見えないからである。

 パウロが、異言もその一種であると考えていたのならば、確かに異言は教会を成長させるのではなく、窮地の際に教会を助ける為に用いられる賜物であるかもしれない。異言でしゃべり、異言で互いに祈り合っている時、キリスト者を取り締まろうとする外部の人間達は、その一人びとりが何を言っているのかわからず、気が変になったと考えて放置するに違いないからである。
 しかし、そのような非常時に教会を守る為の効能も、平時から用いられて居たのでは逆効果である。未信者から真理を隠すこの効能は、平常時には、求道者を追い出してしまうという結果を招くからである。

 パウロが伝道をしていた頃には、自分達の語る言葉を隠さなければならないほどに教会への迫害は激しくなかった。その事を考えれば、異言の賜物をもっているパウロが、異言を用いなかったという事実も決して不自然ではないかもしれない。寧ろ、そのような賜物が存分に振るわれ、用いられるようになったのは、使徒ヨハネや、福音書を記したマルコが長老になった時代に於いてである。ヨハネは、キリスト者を取り締まろうとするローマ帝国の兵士から語られている真理を隠す為に、存分にそれらの賜物を用いて、黙示的な福音書や黙示録を執筆したのである。

 余談だが、異言を解く賜物を持っている人々も、そのような時にこそ活躍したのではないかと考えられる。黙示や異言など、多く真理を隠された内容の文章は、特に手紙などに著された場合、本人がその場に居て解き明かすことが出来ないかもしれない。しかし、そのような時に異言を説き明かす賜物を持っている兄姉が居れば、それはその場でわかる形に解き明かされ、隠れながら信仰を守っている兄姉に、大きな勇気を与えたことだろうと思われるからである。

 また、預言に於いてであるが、全員が全員、預言の賜物が与えられて居る訳では勿論ないのであるが、万人祭司、万人預言者として聖霊を受けている各々は、賜物のあるなしに関わらず、預言を行う事態ことは出来ると考えられる。聖霊が働けば、その場で何を言えば良いか、各々が示されるのは既に約束されていることであるし(ルカ12章11〜12節他)、聖霊が語らせているその言葉は、例え同じ言葉でも、聞く一人びとりには、全く違う語り掛けとして、神の御手の業に用いられるからである。

 神によって用いられた言葉が胸の内に届く時、預言している本人には想像もつかないような働きかけで、その言葉は預言を聞いている未信者や求道者の心に刺さることになる。その結果、預言をしている一人びとりを見て、初心者(求道者や未信者のこと)は、「あなたがたの内に神が居られるのがわかる」と告白するのである。あなたがたの内に、というのは、各々の心の中という話ではなく、集まっている兄姉の間に、神の霊が行き交いしているのがわかる、という意味での告白である。例え一人が、あれこれ預言したところで、その人間が特別なのか占い師なのか、といったような解釈になるかもしれないが、その場で預言する全ての人の言葉が自分の内に働くならば、それを聞いた人は、確かにこの集団の間に神が臨在しておられるのを知る事になるだろう。それ故に、教会を建て上げ、未信者の口から証を引き出すには、預言の賜物を用いる事が適切なのである。

 ここから学ばなければならないことは、異言が預言に劣るとか、そうでないとかいう議論ではない。全ての賜物は、未信者の口から証されるように、確かに私たちの間に神が居られるが故に存在するのだということを、私たちは学ばなければならないのである。
 私たちの賜物は、適切な時に、適切な形で、他ならぬ神の為に用いられるものである。そして、その使いどころは、私たちの間に居る神が教えて下さる。平常時には預言の賜物を、非常時には異言を用いて、教会を育み、育てあげるのは神である。

 だと言うのに、賜物に優劣をつけ、一部の賜物を持っている事を誇り、神の御心ではなく、自分の虚栄心を満たす為に自信に与えられて居るものを私物化してしまう。ここに人間の罪がある。故に、私たちは自身の為ではなく、私たちの間に居られる神の為に、自らの賜物を用いて行かなければならない。異言に関わらず、全ての賜物にこのことが言えるのである。



〇20節
 「子ども(ギ:パイディオン)」は、幼い子供という意味合いを持つ単語である。これは、まだ乳飲み子や幼児といった、特に小さな子供を指す言葉でもある。「考え方(ギ:フェレン)」は、本来横隔膜を表す単語であり、転じてそれが心(心は横隔膜あたりにあると当時は思われていた)となって、心で理解する、思考力、判断力、分別といった意味合いのある言葉である。分別に於いてまで幼児退行するような事があってはならない、とパウロはどうやら戒めているようである。
 逆に、「悪事(ギ:カキア)」に関しては、幼子のように怖がって近づかないような真理が必要である。

 考え方において幼子になるというのはどういうことであろうか。悪事と並べて語られている文脈から察するに、恐らくは悪事に怖がって近づかないのとを同じように、怖がって考える事を忌避してしまう、若しくは、特別な賜物や能力を持っているだけで満足し、その意味合いや意義、趣旨についてまで深く考えようとしない態度、または見栄えするような賜物ばかりを欲しがり、その賜物の役割や意味合いまでは考えないような、幼稚な考え方に退行してしまう現象ではないかと考えられる。

 異言がどのような役割を持つ賜物であるのか、そして、どのように役立てるべきものであるのか、ここまで考えるからこそ「大人(ギ:テレオイオス)」足りえるものであると思われる。ちなみに、「大人(ギ:テレイオス)」には、成熟した、とか、十分に成長した、完全な、といった意味合いがある。自身の持っている賜物の意義や、主の為にどのように役に立つのかという部分まで推し量れてこそ、初めて大人と呼べるだけの考え方をしているということである。私たちは賜物を使うのであり、賜物に使われるようであってはならない。



〇21〜22節
 21節は、イザヤ書28章11〜12節からの引用である。ここで「律法(ギ:ゲラフォウ)」とパウロが言っているのは、旧約聖書全体のことであり、広い意味で律法といっている。狭い意味では、モーセ五書の中の律法が実際に書かれている部分を指すが、広い意味で旧約聖書全体を指して「律法」と呼ぶことも多い。

 で、何故、このイザヤ書が引用されたかといえば、イザヤ書28章11〜12節に書かれている趣旨が、民が悔い改めないように、聞こえづらい言葉で真理を言い表していることが語られている部分だからである。即ち、22節以降に繋がるが、異言も同じような役割があり、真理を聞いているが聞こえず、見ているが見ていないといった状況を創り出し、完全に滅びる人間自身にその責任を負わせるための働きをするのが、この異言の役割なのだとパウロが言っているのである。

 イザヤ書28章は、北王国時代に、神の御言葉や預言者の言葉を受け入れない人々に対して、神が下された決断が語られている箇所である。神は、イザヤを通して、北王国のサマリヤに預言を与えられたが、彼らはその言葉を馬鹿にして聞こうとはしなかった。イザヤ28章10節の、「ツァウにツァウ、カウにカウ、あっちにゼエル、こっちにゼエル」とは、教師の口に倣って子供が教訓を繰り返している様子を指し、転じて「子どもの説教」とか「取るに足らない戯言」といった罵倒の表現となる。
 イザヤの預言を、彼らがそのように嘲笑ったので、神も同じように最早彼らが聞く事の出来ない言葉で真理を語り、彼らがそれを聞いても最早悔い改めず、滅びが確定するように図られたのである。

 22節では、それらを引用して、この時に神が用いられたのと同じ趣旨で、聞こえにくい言葉、理解できない言葉で真理が語られる、その為に必要な賜物が異言であると主張しているようである。それ故に、異言は「信じている者たちのためではなく、信じていない者たちの為のしるしである」と語っているのである。即ち、神の御言葉を聞かず、嘲笑う人々から、真理を完全に隠してしまう為の賜物が異言なのである。

 そう考えれば、異言は既に滅びに入った物を速やかにそこへ送り届ける為に大きな役割を果たす賜物であるので、実際に滅びに入っていない兄姉を建て上げるという方向性では、その力をあまり発揮しないかもしれない。勿論、しないかもしれない程度のことであり、適切に用いられる時、それだけではない様々な恵みや効能が異言にあるということもまた事実である。異言で祈り、神に感謝して癒される時を持つこと、またそれを楽しみにするということが悪いなどとは、決して言うことはできないからである。
 
 逆に、預言は、直接信じている人を建て上げる為の賜物であると語られている。異言は、滅ぶ人を真理から遠ざけて、いよいよ「不信者」に固めてしまうが、預言は、救いに入った人を真理に近づける役割をもつ賜物である。それ故に、教会の中に於いては、一万の異言よりも、五つの預言のほうが役に立つとパウロが主張しているのである。



〇23節
 ここでは、その実例が語られている。
 「ですから(ギ:エアン)」という言葉で継がれているので、これは22節で語った結論の実例(イグザンプル)である。
 エアンは、仮定(IF)を表し、もし、異言が使われて居たら〜というケーススタディが表されている。
 「気が変になっている(ギ:マイノーマル)」は、そのままの意味であるが、これが、外からやってきた人々の異言を話す人々に対する評価である。異言を喋っていたら、「気狂いである」と未信者に評価されるので使うのをやめろ、と言っているのではなく、異言が能力を発揮するとこうなるのだ、とパウロが語っているのである。

 それが平時であれば、当然やってきた未信者や求道者を追い返すようなことになり、魂を救いに導き、教会を建て上げるのとは逆の効果を及ぼしてしまうことになる。しかし、これが非常時ならば、弾劾しようとやってきた外敵を惑わして追い返し、教会を守る方向にその力が発揮されるであろう。
 しかし、残念ながら、一コリント人への手紙が書かれた当時はまだ非常時ではなく平時であった。それ故に、異言が本来の役割を果たして教会を守るようなケースは訪れない。従って、異言には教会の成長の役に立つ機会は与えられないのである。



〇24〜25節
 逆に、預言がそこで話されているのならば、彼は「責められ(ギ:エレグコウ)」ることになる。これは、目が開かれるとか、宣告(即ち有罪判決)されるといった意味があり、預言している本人が責め立てるというのではなく、その預言を聞いて自分が有罪であることを思い知らされるという意味合いがある。
 また、「問い質され(ギ:アナクリオウ)」は、そのままの意味であり、自身に罪がある事を知らされるだけでなく、それでよいのかと、全ての預言に於いて自分の心に問い質されることになる。
 そして、「あらわにされる(ギ:フェネラ・ギノマイ)」とは、最早、その問題についてみて見ぬ振りが出来なくなるということである。自身が罪びとであることを突きつけられ、それで良いのかと問い質され、そして、最早そのことについて、見て見ぬふりをしたり、考える事を後回しに出来なくさせたりするように心に迫りを齎す。ここに預言の役割があるのである。
 これは何も、預言者が超能力者のように、人の心の中を暴いて白日の下に晒すというのではなく、あくまで預言を聞いた各々の心の中で、本人と神の間にのみ起こることである。
 人間の心を見通す事ができる超能力者など居ない。居るとすれば、それは主イエスだけである。偉大なる予言者サムエルですら、人の心の中を見通すことは出来なかったのだから(Tサムエル記16章7節)。人の心の中を見通せると豪語する者は、サムエルよりも偉大なのだろうか?

 何はともあれ、人間には決して見通すことが出来ないが故に、「心の内の秘密(ギ:クルプタ・テス・カルディアス)」なのである。しかし、人間に見通すことの出来ないはずのそれが、預言によってどんどん明らかにされていくとき、その預言を語る集団の間に働く神の霊の力について、最早その人は疑うことが出来ないであろう。それ故に、「確かに(ギ:ホティ・オンテオス)、あなた方の間に(フーミン)、神が居られる(セオス・エン・エスティン)」と、彼は宣言するのである。

 誰か、特別な人間の中にそれらしきものが入っているかもしれない……ではなく、確信をもって、集団の間に居られるのが神の霊であるとかれは告白するのである。
 また、「確かに」は、自分が今真理を見出したという意味ではなく、あなた方が言っている通りだったという意味での「確かに」である。私たちがまず、私たちの内に神が居られるということも、よく理解し、信じて告白しなければならないのは明白であろう。 



2.詳細なアウトライン着情報

〇思考放棄してはならない。
20a 兄弟達。
20b 考え方において子供になって(退行して)はいけません。
20c 悪事においては(むしろ)子供でありなさい。

〇異言の役割
21a 律法にはこう書かれています。
21b 『「わたしは、異国の舌で、異なる唇でこの民に語る。
21c それでも彼らはわたしの言うことを聞こうとはしない」』と主は言われる。
22a それで(この箇所の御言葉と同じように)異言は、信じている者たちのためではなく、信じていない者たちの(、いよいよ不信者として裁かれる)為のしるしです。
22b (逆に)預言は、信じていない者たちのためではなく、信じている者たちの(、より真理に近づく)ためのしるしです。


〇例えば
23a ですから、(もし)教会全体が一緒に集まって、皆が異言で語るなら、
23b あなたがたは気が変になっていると言われないでしょうか。
23c 誰に?:部外者や未信者が入ってきた場合、

24a しかし、皆が預言をするなら、信じていない人が初心の人が入ってきたとき、
24b 何が起こる?1:その人は、皆に(預言を通して心の内に)誤りを指摘され
24c 何が起こる?2:皆に(預言を通して心の内に)問い質され、
25a 何が起こる?3:心の秘密が(神と自分の前に)あばきだされます。
25b こうして、(未信者や求道者は)こう言って、ひれ伏して神を拝むでしょう。
25c 言葉:「確かに、(あなたがたが言っている通り、)あなたがたの内に神が居られる」

着情報3.メッセージ

『私達の間に居られる神』
聖書箇所:Tコリント人への手紙14章20〜25節
中心聖句:『こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。』(Tコリント人への手紙14章25節) 2024年7月28日(日) 主日礼拝説教要旨 

 異言について取り扱う説教も、これで三回目になります。これまでパウロは、「本物の賜物は教会全体の益になる為に用いられるものである。皆が損をして一人だけ得をしたり、また全体の迷惑になったりすることが、聖霊やその業によって行われることはない」ことを説明し、コリント教会で皆を騒がせている「異言もどき」が、聖霊による賜物でないことを教えました。賜物には、各々趣旨や目的があり、教会全体の益となる使いどころも必ず存在します。それは、私達の間に居られる神様が、各々の賜物を用いて御計画を立てて下さっているからです。

 パウロは、コリント教会の信徒達に対して20節で、「聖霊が与えて下さる賜物にどのような使いどころがあるのかを考えもせず、持っているものを自慢したり、持っている人を羨んだりするような幼稚な者となってはいけない」と戒めました。子供は、何でもおもちゃを欲しがりますが、そのおもちゃを手に入れてどうするのかまでは考えません。それ故、手に入れたら満足して、すぐに飽きてしまいます。コリント教会でもその殆どが、自身の異言を自慢したり、他の人の自慢に嫉妬したりしていました。異言の賜物について、その趣旨を考えもしなかったのです。その有様をパウロは、「おもちゃを取り合う子供と何が違うのか」と指摘しました。
では、異言の賜物は、どのような趣旨で私達に与えられるのでしょうか。パウロは、この箇所では特に、異言の賜物が「信じていない者たちのためのしるし」だと宣言しました。これは、「未信者が信仰を獲得する為」ではなく、「頑なな人が、そのまま信じずに滅びてしまうという事柄が決定される為」であるという意味です。イエス様が、毒麦のたとえ(マタイ13章24-30節)で宣言された通り、世の終わりでは、信じて救われる人と信じず滅びる人が完全により分けられます。信じている人は更に信じて良いものを得、信じない人は今持つ信仰すら取り上げられて、完全に信じない者とされてしまうのです。そこには言い訳の余地もありません。

勿論、これが異言の効能の全てではありませんが、パウロは、そのような役割も異言が持つことを、一例としてコリント教会の人に紹介しています。部外者が教会の外から入ってきた時に皆が異言を話していたら、部外者の人々は「みんなどうかしている」といって外に出て行ってしまいます。これは悪いことのように思われますが、もしその部外者が、非常時に私達の信仰を告発しようと入ってきた人々であったとしたなら、教会は守られることにならないでしょうか。異言だけでなく、イエス様の「たとえ話」や、使徒ヨハネの「黙示」など、困難の時代に教会が守られる為に神様から与えられている賜物も、私達の間には存在するのです。

 だからこそ、「今はそのような非常時ではなく、平時なのであるから、異言の出番は無い」ことを、パウロは言いたかったようです。平時には、異言でなく預言を用います。そうすれば、その御言葉の取次ぎによって、やってきた部外者の人の心の内側が神様の前に明らかにされ、棚上げしていた自分の悪い部分から目がそらせなくなり、決断を迫られます。そして、悔い改めのしるしが、その人の内に起こるのです。悔い改めのしるしが心の内に起こった人は、それが到底人間の仕業でないことに気づきます。そして、預言の賜物を用いる人々を通して、自身に働くより大きな存在に気づき、恐れ、信仰を持つのです。その時、その人は私たちがいつも宣言している通りに、天地の造り主である父なる神と、救い主イエスが、私達の間に居られることを告白するでしょう。その趣旨すらも理解せず賜物を自慢したり、他人の自慢を妬んだりしているなら、それが明らかな人間の罪なのです。私たちはどうでしょうか。自身の持ちうる全てが、神様のものであることを改めて弁えて、謙遜に神様にお仕えしていきましょう。





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