1.時代背景、舞台、文脈背景
14章も終盤にさしかかり、最終的に礼拝がどうあるべきであるのか、手紙の読者である信徒たち自身に判断させようと、パウロは結論へ言を進めている。
パウロが一貫してこの段落で言わんとしていることは、礼拝の中で賜物の競い合いが行われないように願っている、ということであろう。私はあれが出来る、これが出来ると主張するのは構わないが、全てのことは教会の成長の為に、また秩序だって順番に披露されなければならないからである。
異言や預言の両者について、これまでパウロは25節までに語ってきたのであるが、異言であろうが、預言であろうが、制御された上で順番に用いられなければ、教会の礼拝の役に立たないという点は共通している。少なくとも、それぞれが自分勝手に競って賜物を披露しようとし、かつ、その発揮の仕方に何の吟味も加わらないというのは、秩序ある礼拝ということはできない。
教会の中で行われる儀式は、ほかならぬ神の為のものであり、神のためのものである以上は、その御心にそった形式で行わなければならない。自分の承認欲求を満たす場にしたり、他の人々を貶めるための場として使うのは許されないということである。
異言についても、その使い方についていろいろと限定がなされている。順番に一人ずつ語り、一人が解くのである。おそらく、この解く一人は異言を語った人の中の一人であり、さらにいうならば本人にフォーカスが充てられていると思われる。自分の異言は自分で解くことが出来るはずだ、というパウロの話を前提にここが語られている。もし、自分ですら解けない異言もどきであるなら、誰もいないところで一人で語っているべきであると、痛烈な皮肉を込めて話している。
何にせよ、教会の中で守られているものは平和であるべきであり、混乱を引き起こすものや、騒乱を引き起こすものは排除しなければならない。教会の成長の為に引きこされなければならない対立などの例外を除いて、主の望まれる教会の形は、平和の中にある秩序なのである。
教会の中で行われる儀式、特に礼拝は、人間の為でなく神の為に行われるものである。神の霊が与えた賜物が用いられ、神の霊によって導かれ、神の栄光を称えるために行われる儀式の中に、神の秩序以外の者が入り込むことは決して許されない。しかし、人間は自分の欲や虚栄心によって、神の栄光の為に守られている礼拝にまで、自分の利益を見出そうとする。ここに人間の罪があるのである。
〇26節
「集まる(ギ:スネルコマイ)」は、礼拝に共に集うという状態を指す単語である。日曜日の夜に皆で集まる時の事を指しているようである。また、以下の役割が礼拝の中に挙げられており、それぞれが、自らの賜物によって礼拝の中で役割を担い、参与した様子がわかる。
「賛美(ギ:パルモス)」。賛美の賜物。詩編などを伴奏したり、もしくは自作の讃美歌を捧げたりする賜物であったと考えられる。そのまま賛美の賜物として受け取っても良いようだ。
「教え(ギ:ディダスケー)」は、キリスト教の教理を人々に教えることが出来た人の賜物である。教理はとても大切なものであったので、集まる度に、これらの人が人々に、教理を説いたのだと思われる。
「啓示(ギ:アポカリュピス)」は、啓示、もしくは黙示であり、神が与えた特別な事柄を、他の人々に示す賜物である。預言ではないが、預言に似た賜物として挙げられていると思われる。
また、異言やその解き明かしも、この中に含まれている。何に於いても、全てのことは、教会をたて上げるために用いられるものであり、異言やその解き明かしもその中に含まれるということが確認されている。
〇27〜28節
「順番(ギ:メロス)」は、部分や席、場所、分け前といった意味のある単語であり、その示すところは一部分ずつ、もしくは席ごとにという意味である。異言を騙るグループは、何名もが一斉に叫びだすので混乱を及ぼした。それを鑑みて、彼らが増長して礼拝を乱すことが二度と内容に、異言で語るならば一名ずつ、そして解き明かして吟味されることで秩序が保たれるようにとパウロは命じたのである。
また、解き明かすものがいない場合、その人は異言を話してはいけない。「黙っている(ギ:シガトゥ)」べきである。
異言は、止めることのできない恍惚から発するリビドー的な性質を持つ賜物ではない。それは、異言に似た種々の不詳の礼(すなわち悪霊)が齎すまったく別のものである。異言は、賜物を持つものの礼に従うものである。
自分に対して、神に対して語れとパウロは言っているが、家でいそしめば良いと言っているのではなく、誰もいないところで意味の分からない言葉を騙っているがよいと、辛辣な物言いをしているのである。
解き明かすものが居ない異言は教会をたて上げるものではないので、少なくとも礼拝からは排除されなければならない。
〇29節
また、預言といえど、異言と同じように規則に服従しなければならない。神は秩序の神であり、混沌の神ではないからである。預言も、異言と同様に一人ずつ話すべきである。
そして、預言ならば無作為に受け入れられるものではなく、皆で「吟味(ギ:ディアクリノウ)」されなければならない。
グノーシス主義に基づいて間違った教えを「預言」として押し付けようとする異言を話すグループへのけん制だとも思われる但し書きである。教えは教えでも間違った教えは決して受け入れられるべきではないのである。
「他の者(ギ:アロイ)」が誰を指すかは定かではないが、その場にいるほかの会衆か、もしくは預言の賜物を持つ他の人々の事であると思われる。吟味するためには賜物が必要であるので、おそらくは他の預言の賜物を指すのであろうが、「教える人」などが教理的に正しいかどうか吟味する可能性も鑑みると、他の会衆と広くくくるほうが適切であるかもしれない。
いずれにせよ、預言は無批判に受け取って良いものではないという事である。必ず吟味し、それが聖書の御言葉に適ったものであるかどうか、聞く側もよく考えなければならないのである。
〇30〜32節
「席に着いている(ギ:カッセマイ)」は、文字通り、その礼拝に参加して席に着いている別の人を指す。おそらくは預言の賜物を持っている人のことであり、29節で吟味していた人であろうと思われる。注釈か、それとも訂正の必要がある時に、霊的な啓示を受けて立ち上がるのであろうから、前にしゃべっていた人はその訂正や注釈をひとまずは受け入れて聞かなければならない。勿論、その注釈が妥当であるかどうかも同様に吟味されるべきである。
誰でも一人ずつ預言できるとパウロが言っているところの真の意味は、預言させる霊が常に一つ、すなわち聖霊であるというところである。聖霊が統一してその場にいるすべての人をしゃべらせているのであるから、意見のぶつかり合いや、混乱などが起こるはずもない。一人で喋っていて一人で混乱するような人はただの狂人である。聖霊が狂うことなどはないのであるから、自然とそこには秩序が生まれるはずである。
「服従(ギ:フーポタッソウ)」は、服従する、屈服するという意味である。当たり前であるが、この服従とは、預言するものが好きなように預言を話せるという意味での服従ではない。預言者がしゃべりたいときにしゃべり、黙りたいときに黙るという意味での服従である。預言者は、預言をするのであり、神を騙って自分の好きなことを言うことが許される存在ではない。そのような意味でも「吟味」されなければならない。他の預言の霊を持つものは、他でもない預言する霊によって、偽預言者を告発することができる。告発すべき時も預言の霊が示すが、告発するかどうかは預言者が判断することが出来る。そのような意味合いでの服従である。
〇33節a
「混乱(ギ:アカタスタシア)」は、不安定、無秩序、騒乱、混乱という意味がある。
また、 「平和(ギ:エイレネ)」は、平和、和睦、太平、融和に加えて、秩序ある状態を指す。混乱とは反対の言葉であり、常に問題がない安定した状態を指す。
これらの意味の示すところは、「制御が出来ていないの状態は御心に適うものではない」ということであろう。神に制御できないものは存在せず、神の性質は常に安定の中にある。それを鑑みれば、コリント教会の中にある礼拝の混乱が、神の喜ばれることはあり得ない。神は秩序と平和、安定を愛されるからである。そして、この秩序と平和、安定をもたらすものこそが、異言や預言にかかわらず、語るものに服従する霊の姿である。秩序と安定をもたらすのもまた神の霊であり、これによって私たちは安寧を得ているのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇まとめ
26a それでは兄弟たち、(これまでのことを踏まえ、教会の中では)どうすればよいのでしょう。
26b あなた方が集まる時は、それぞれが(自らの賜物に応じて様々なことを)できます。
26c 例えば:賛美したり、教えたり、啓示をつげたり、異言を話したり、解き明かしたりです。
26d そのすべてのことを、(教会の)成長に役立てるようにしなさい。
〇異言の取り扱い
27a 誰かが異言で語るのであれば、二人か多くても順番に行いなさい。
27b (そして)一人が解き明かしを行いなさい。
28a 解き明かすものがいなければ、教会では黙っていなさい。
28b (その後、どこか誰もしらないところで)自分に対し、神に対して(勝手に)語りなさい。
〇預言の取り扱い
29a 預言する者たちも、二人か三人が語りなさい。
29b ほかの者たちはそれを吟味しなさい。
〇一人ずつしゃべりなさい
30a 席に着いている別の人に掲示が与えられることがあります。
30b そうしたら、先に語っていた人は黙りなさい。
31a だれでも学び、だれでも励ましが受けられます。
31b 同じように、だれでも一人ずつ預言することができるのです。
〇混乱するようなことは起こらないはずです
32 預言する者たちの例は、預言する者たちに従います。
33a 何故なら:神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。
着情報3.メッセージ
『秩序の中の平和』
聖書箇所:コリント人への手紙14章26〜33a節
中心聖句:『神は混乱の神ではなく、平和の神なのです。』(コリント人への手紙11章36節)
2024年8月25日(日) 主日礼拝説教要旨
Tコリント14章も終わりに近づき、実際の礼拝の中で各々がどのようにふるまうべきであるか、その結論をパウロは述べようとしています。パウロは、「礼拝の中の全ての行動が、秩序に従って行われるように」と、コリント教会の一人びとりに厳かに命じました。礼拝という行為は、参加する人間の為ではなく神様の為に捧げられるものです。各々の思惑の為ではなく、神様の喜ばれる秩序の為に、礼拝の平和が保たれることこそが重要なのであります。
私たちは、それぞれ賜物を与えられ、割り振られた任務を遂行できるようにされています。それは、他でもない天地を創造された父なる神様ご自身の手によることです。それでだけなく父なる神様は、聖霊の働きを通して、私たちの行うことに統一性を持たせているのです。だから私たちが、聖霊に従って物事に取り組んでいる限り、その働きが混乱に陥るということは、理論的にあり得ないのです。手足が別々の意志をもって動くために歩くこともままならない。そんな人など、一体どこに存在するでしょうか。教会は、統一された動きを行い、天の父なる神様と、頭であるイエス様の為に成長します。それを成し遂げる為に、聖霊が存在するのです。
礼拝という儀式一つにおいても、それらは聖霊によって順序が定められ、説教者に何を語らせるかも聖霊の意志で一つのことが定められます。だからこそ、聖霊によって指名された一人びとりが、秩序に従って順番に発言するのです。礼拝の中で奉仕をする人が予め任命されているもその為です。司会者に呼ばれてから、奉仕を行う人は仕事を始め、牧師もその人の仕事が終わるまで説教するのを待ちます。定められた者以外は、礼拝中発言することも許されません。これは全て、聖霊の定めた秩序に従うが故です。私たちは、これを弁えねばなりません。
しかし、私たちは罪のある人間ですから、どうしても集団の中で自身の価値を示さずにはいられません。承認欲求の故に、「唯一の存在」となりたいからです。特に、主日礼拝はクリスチャン達の集まりの中では最も重要な催しごとですから、その場で「特別な奉仕をしたい」、「目立ちたい」、「貢献したい」、「周囲に自分が教会で最も重要な人物だと思われたい」と考える人が出てきてしまうことは避けられません。しかし、それぞれが既に任命された奉仕者を押しのけて、「私はもっと上手に賛美ができる」「私はもっと上手く教えることが出来る」「私は更に凄い啓示を告げることが出来る」「私はもっと異言を話せる、解ける」と主張するようになれば、礼拝はどうなるでしょうか。秩序だった平和な礼拝の実現など、到底出来ないのではないでしょうか。結局は、賜物が預言であろうが異言であろうが関係ないのです。聖霊の定める秩序に逆らって礼拝を混乱させる原因になるなら、どの賜物にも価値がないからです。礼拝は、父なる神様を称える為に頭であるキリストの死を記念し、聖霊に導かれながら行われるべきものですし、この三者は全て、秩序を定めた三位一体の神の御一角です。だからこそ、本当に神様の為に礼拝を捧げたいと望むのであるならば、秩序を愛し、混乱を憎むというのは、当然の態度なのではないでしょうか。だと言うのに私たちは、神様の御心や、イエス様の身体の意味、聖霊の手の業の趣旨などについて一切考えも弁えもせず、「自分こそが注目されるべき尊い存在である」と主張して礼拝を妨げてしまうのです。ここに人間の罪があります。
私たちの賜物も、奉仕も、存在すらも、神様の定められた秩序の中に置かれ、各々活躍すべき場が定められています。だからこそ、神様の秩序を尊んで従う時に、私たちが最高に輝ける場が与えられるのです。神様は既に、私たちの最高の舞台を用意してくださっています。ですから安心して聖霊の導きに従い、忠実に自らの仕事に取り組んで神様にお仕えしましょう。
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