1.時代背景、舞台、文脈背景
14章終わりの結論部分である。
パウロはこの部分で、適切に礼拝を守ることをせず、かつ教会の法に従わずに人々を惑わせる、自称「霊の人」をはっきりと断罪している。
彼らは、パウロのいうことや、使徒としての権威に対して挑戦し、これを認めないのであるから、ほかならぬ神から無視された存在、すなわち、「クリスチャンですらない」という烙印を押され、追放を促された。勿論、それを受けて悔い改めて忠実になるというのならば、追放されるようなことにはならないだろうが、そのような殊勝さがあるのならば、そもそも例外を妨害して私物化しようなどという発想すら思い浮かぶことはなかったであろう。
女性問題について、パウロが多く語っているように見えるが、その内容の本質は女性の価値について論ずることではなく、語るにふさわしくない人間が、意味もなくしゃべり続けて礼拝を妨害していることに対する苦言である。口述するが、この時代の女性たちは一切の教育を受けておらず、そもそも「語る」為の基礎的な知識や教養を備えていなかったのである。それゆえに、彼女たちは、少なくとも集会の中で神の御言葉が取り次がれている間は、口を閉じ、あえて沈黙を保っていなければならなかった。
ひいてはそれが、パウロが結論としていっている、「すべてのことを適切に、秩序正しく行う」ことにつながるからである。
女性の問題を追究しようが、霊の人が断罪されようが、パウロにとってはそれらのことは全てとるに足らないことであり、彼が求めているのは唯一つである。すなわち、「万事適切に」かつ「正しい手順」で、礼拝と聖礼典が平和に執行されることだけが、パウロにとっては重要なのである。それに反するようなトラブルは全て排除されなければならない。
「適切に」とは、すなわち、「麗しいこと」「多くの人々の目に適っていること」「作法に則っていること」などという意味合いが込められており、一般的なすべての兄姉にとって「美しい」礼拝の形が保たれていることである。「秩序」とは、すなわち、その時代時代で教会に定められた「適切な礼拝の手順」である。礼拝の麗しさを守ること、また、万事秩序正しく、手順に則って平和にこれが執行されていること。さらには、これが正しく維持されていることこそが、それぞれの時代に課せられた「教会の法」なのである。これを乱すことは、どの時代のいかなる権力、思想、社会的圧力、その他の外的な要因によっても許されることではない。もし、その法に従わない者がいるのだとすれば、その人は、「神からも無視されている」存在なのである。
では、何が麗しく、何が適切で、何が理に適った正しい手順であるのか。それは実に漠然とした概念で、時代を超えてはっきり明文化できるようなものではない。例えば、パウロの時代では、例えばそれは女性が被り物をして、礼拝中は黙っていることであった。しかし、現代においては、女性に限らず、被り物をしたまま御言葉を聞くのは礼を失する行為であり、更には、男女関係なく、御言葉の取次に対して口を開くのは、致命的な「不適切」であるとみなされる。礼拝の適切さ、麗しさ、正しい手順は、時代を追って少しずつ変化していくのである。
であるならば、どのようにこれを規定するのかが問題になるが、それは、「聖書の御言葉を基準として、聖徒たちの一致した愛による主なる神への真心をもって、キリストの身体によって探り出される」ことによって規定される。
すなわち、それらはキリストの身体である教会ごとに少しずつ違っていて問題なく、礼拝形式に教会ごとに少しずつ違いが出るのはここからきているのである。
大切な方は、御言葉を基準として、愛による主への応答として、教会全体が一致することである。ここに、世の法に一切介入を受けることのない、「教会の法」が存在するのである。
私たちは、そのような教会の法によって導き出された「秩序」に則り、礼拝が常に「適切」に、すなわち麗しい状態で、平和に保たれ続ける様を維持しなければならないのである。それこそが、神によって召された聖徒達の責務なのである。
〇33b〜35節
実は、この箇所は、40節の後に出ているパターンの写本も存在し、色々と解釈について論議がなされている節でもある。
また、33節bにおいては、節の途中で段落が分かれている珍しい箇所でもある。
ただし、現状の伝統的な並びの通りに書かれている写本の方が圧倒的に古く、信用できる写本であるため、40節の後に出てくる写本は、後代に書き換えられた信用できないものとみなした方がよさそうである。
また、教会は、伝統的に33節後半が34節に含まれていると考えて読んできた歴史もある。
33節前半が、神の性質そのものについてという非常に高い次元の話題であるのに対し、後半については教会のただの慣習について書かれていることから、あまりにも話題についての落差が激しく、両者をつなぎ合わせようとしても整合性もとれないことから、33節後半で話題の転換が行われ、34節につながったと考えることが、文脈的にも適切で無理がない解釈であると考えられる。
以上の理由から、様々に釈義の方法も分かれると思われるが、伝統解釈にのっとって34節に含めるように読むのが適切であろう。
「女の人(ギ:ギュネー)」は、女性、ご婦人、妻といった意味合いのある言葉である。34節では、主に夫と共に参加している夫人のことについて言及していると考えられる(家に帰ってから夫に尋ねるようにと言われていることから)。
「教会(ギ:エクレーシア)」は、教会の集まり全てについてではなく、礼拝中、集会中という意味合いで用いられているように見える。ここでは狭い意味での礼拝内と解釈するのが文脈的に見ても正しそうである。教会にやってきて、礼拝中以外の時も終始黙っているようにと、無茶な命令がなされている訳ではない。
「黙っている(ギ:スィガオウ)」は、沈黙する、(あえて)黙っているもしくは発言を控えるという意味合いのある単語である。言いたいことがあることを抑え、あえて発言せずにおくことは、一定の場、特に発言に知識が要求される場においては重要なことである。
決して女性蔑視の観点からこれらのことが言われている訳でないことは弁えて私たちも聖書を読み解くべきである。
特に、この時代の女性達は、時代的な背景から一般的には教育を一切施されていなかったのが普通であったということ。
また、ギリシャ社会の中で、公の場で女性が夫を通さず発言するのは恥ずべきことであるという、マナーや風習があったという事実については、考慮したうえでこのことを評価すべきである。
現代においても、学会や政治討論の場など、発言を行うためには一定以上の知識と共用が要求される場が存在する。そのような場で、何の学識も教養もない人間が勝手に発言したり質問したりすれば、周囲からの失笑を買うことは避けられないだろう。
まして、教養の無い人間の側から考えれば、一体「何が適切な質問であるのか」すら評価することすら難しい。そういう場ではあえて沈黙することは正しいし、疑問があるならば、公の討論が終わった後で近くの友人や家族にその内容を質問することが正しい姿勢であるのは、少し考えればわかることではないだろうか。
また、パウロが女性を蔑視し、女性の教職者を認めていないと考え、現代でもこの聖書箇所などを根拠に、女性に対する按手を認めないグループも存在するのであるが、それについては慎重に見なければならない。パウロは、被り物さえかぶっていれば(すなわち、社会通念上相応しい正規の方法で礼拝に出席している女性であるのならば)、祈りや発言、更には教えることも許されると認めているのであるし(10章32節、11章16節)、旧約聖書の時代から、本当に神からの霊感を受けたのであるならば、女預言者や女性士師などが群れのリーダーになるケースも当たり前に存在したのである(士師記4章、列王記下22章etc..)。これらの歴史的事実から考えても、女性が教師となることを認めず、女性を軽んじたり蔑んだりするのが教会の方針であると考えるのは検討違いである。
あくまで、パウロがここで問題にしているのは、訓練や相応しい教養を身に着けず、場を弁えずに騒ぎ立てて礼拝を妨害し、秩序を乱すことがあってはならないということであって、女性全体を軽んじて発言を行っている訳ではないことは間違いないだろう。
「律法(ギ:ノモス)」(民数記30章1〜16節、申命記24章1〜4節etc..)の言葉を持ち出してまで、パウロがこれを言及することは大分強い物言いであるから、このような言葉を持ち出す以上、場を弁えない夫人の発言が礼拝をいかに妨害し、かつ制御が困難な問題になっていたかも窺い知れるのである。
○36節
「あなたがた(ギ:ヒュモン)」が、誰を指すかについては、議論のある箇所である。
文脈だけを見ると、礼拝中に勝手に発言を行っている夫人たちに対して言われているようにも見える。
ただし、この一帯の箇所では、夫人を表す言葉は「女の人(ギ:ギュネー)」という三人称の単語が常に使われており、また、「あなたがた(ギ:ヒュモン)」は、手紙の最初から一貫してコリント教会全体を表す単語として用いられてきた。
さらには、「あなたがた(ギ:ヒュモン)」は、主格男性系複数で書かれていることから見ても、コリント教会全体の増長や思い違いについてパウロが言及している箇所と考えて読むのが適切であると考えられる。
コリント教会は、霊感を受けてもいないのに、聖書の御言葉に異議を唱え、必要とあらばそれに解釈を付け加えたり、ねじまげたりしても良いと考えて思い上がり、学ぶと見せかけて中身のない討論を重ねてしゃべり続けて礼拝の規律を乱していたのである。それは、他の教会に兄姉を軽視するひとりよがりの態度であって、全体の協調、すなわち平和の神が敷く秩序に反抗することであった。
それゆえに、特にその行為が酷かった「女性達」に対して、パウロは「黙れ」と命令したのである。
○37〜38節
自称「霊の人」に対する断罪、もしくは警告文である。14章の目的の部分であるともいえる。
「思っている(ギ:ドケオウ)」は、期待する、望む、欲する、(本人は)そう思っている、といった意味合いがあり、決して良い意味合いで用いられる言葉ではない。日本語における「自称」が、決して良い意味合いで使われないのと同じように、多くの場合は事実がそうでないにも関わらず、本人がそう自任して主張しているようなケースで用いられる動詞である。
すなわち、「霊の人」を名乗り、自分たちが異言を語っていると「自称している」グループに対して、パウロははっきりと従うようにと命令しているのである。
「認める(ギ:エピギノスコウ)」は、知る、認識する、気づくという意味合いの言葉であり、認めて服従せよという強い命令の際に用いられる単語である。パウロの命令は特別強い言葉をもって、礼拝を乱す自称「霊の人」、いや、偽預言者たちのグループに対して下されているのである。
「無視される(ギ:アグノエオウ)」は、誰によって無視されるのであるか。それは神からである。神によって知らないもの、無視されているものは一体誰であるか、それはクリスチャンではない偽預言者たちである。すなわち、パウロはこの命令に従わないものは、「そもそもクリスチャンでもなく、聖徒でもない」と、その根源的な身分そのものを否定する言葉をここで用いているのである。
○39〜40節
パウロは、最終的に異言を封ずることも禁じ、結論の命令として、全ての事を「適切に」「秩序正しく」行うように命じた。
「適切に(ギ:エウスケモノス)」は、礼儀正しく、無作法をしないという意味がある。それはすなわち、「麗しく」とか、「万事適切に」という意味合いであり、何をもって麗しいと考えるかは、時代によって変わってくるものである。
これについては、各時代ごとに、その場に集まった兄弟姉妹たち全員が同意できる形で礼拝が平和に守られていると考えるのが良いと思われる。故に「適切に」と読み、その内容については各時代の教会の兄姉の感覚に委ねることは、まさに「適切」であろう。
「秩序正しく(ギ:タキシス)」は、順番に、正規のの配置、地位や階級などを表す言葉であり、本来あるべき姿で、順番通りにといった意味合いで語られている。秩序とはすなわち、適切に定められた手順を指すことだと解釈して良いだろう。
そして何より、「適切さ」も「秩序」も、聖書にしるされた神の御言葉に対し、時代ごとの兄姉が、その愛によってあらわす神への真心から引き出されるものである。
すなわち、教会の法とは時代を超えて、「御言葉に忠実であり、愛の実践によって神への真心を表す」ところから表され、守られ続けているのである。
故に、私たちはこの法にのっとって、各々が「自分たちの群れの在り方」を、聖霊に在って良く考え、何が適切であるのかを探求しつつ共有し、協力して実現し、またそれを維持し続けていかなければならないのである。
2.詳細なアウトライン着情報
33b 聖徒たちのすべての教会で行われているように、
34a (礼拝を最近妨害していると聞いているグループに属する)女の人は教会で(集会が行われている間)は黙っていなさい。
34b 彼女たちは、(主の霊によって語られるすべてのことに対して、これを論評しようとし、口に出して)語ることを(適切な教養や能力、何より主の霊による本物の霊感を受けていないが故に)許されていません。
34c 律法(旧約聖書全体)も言っているように、従いなさい。
35a もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。
35b 教会で語ることは、(女性は外出先で発言すべきではないという古代ギリシャ時代の社会通念上)、女の人にとって(適切なふるまいではなく、むしろ)恥ずかしいことなのです。
36a (そもそも、何故集会中に霊感を受けて語られる教えについて論ずるのでしょうか。)神の御言葉は、あなたがたのところから発信(で)たのでしょうか?
36b あるいは、あなたがたにだけ伝わった(ものな)のでしょうか。
37 だれかが自分を預言者、あるいは御霊の人であると自称しているのならば、その人は私があなたがたに書いていることが主の命令であるということを認め(て受け入れ、服従し)なさい。
38 それ(すなわち私が書いたこと)を無視する人がいるのなら、その人は(他でもない)神から無視されます。(つまりその人はクリスチャンではありません)
39a ですから、私の兄弟たち、預言することを熱心に求めなさい。
39b また、異言で語ることを禁じてはいけません。
40 ただ、(礼拝と聖礼典の執行に於いて)全ての事を適切に、(かつ)秩序正しく行いなさい。
着情報3.メッセージ
『教会の法』
聖書箇所:コリント人への手紙14章33b〜40節
中心聖句:『ただ、すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい。』(コリント人への手紙14章40節)
2024年9月8日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
14章も終わりになりました。パウロは、これまでの問題の中心となり、礼拝と聖礼典を妨害し続けてきた、自称「霊の人」、自称「預言者」、「女の人」に対して裁定を下します。それは、「命令に従わないならば教会から追放されるべき」という宣告でありました。38節の「無視される」とは、神様から無視されるという意味です。つまり、「彼らは最早クリスチャンですらありえない」と断罪する、厳しい言葉なのでした。またパウロは、コリント教会の信徒たちに対しても、これまで手紙の中で取り扱ってきた全ての問題に通じる最終的な命令を下します。それは、「すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい」という命令です。この命令こそが、神に召された聖徒の集まりである教会が果たさなければならない責務なのでした。
一見、今日開いた箇所の前半部分は、まるで女性が軽んじられているかのような内容が見受けられますが、実際にはそうではありません。社会通念に反した形で集会に参加し、かつ礼拝を妨害する一部の女性グループに、それをやめるよう警告しているだけです。当時は、時代背景的に女性教育の普及が進んでおらず、女性が討論に参加出来るだけの下地が整っていませんでした。それ故に、トラブル回避の為に公の場で女性が討論に参加することは恥ずべきことであると考えるのが一般的だったのです。「教会外ですら忌避されることが、何故教会内で平気で行われ、しかも神の前での公的な礼拝が妨害されているのか」とパウロは非難したのです。教会の内外で文化や考え方の差は確かに存在しますが、公序良俗に反する行為が忌避されるのは時代や場所を問わずどこでも同じことです。聖書の御言葉に反するようなことでもない限り、私たちは誰が見ても「麗しく」かつ「適切な手順」で礼拝を守らなければなりません。
では、礼拝における「麗しさ」や「適切な手順」とは一体何なのでしょうか。それは各時代ごと、また各国の文化によって正解が変わります。パウロの時代のギリシャ教会では、女性が帽子をかぶり、礼拝では黙っていることが「適切である」と判断されましたが、現代日本ではそうではありません。少なくとも一般的なプロテスタント教会では、男女問わず、帽子を被ったまま説教を聞き、礼拝中に発言することは許されません。このように、「適切な礼拝の形」は、時代や状況によって変わるものであります。しかし、だからと言って好き放題にして良い訳でもありません。何故なら礼拝の適切さは、「聖霊の主導」により、「聖書の御言葉」に従って、「集まる聖徒たちが神様への真心を愛によって示す形」で、探り出されるものだからです。御言葉によって、神様の御心を推し量り、各々が聖霊の主導によって、神様への真心を注ぎだして、何が適切か議論されます。これが正しく行われるときに、誰もが「アーメン」と喜んで従うことの出来る麗しい、かつ適切な教会の法が作り上げられていくのです。しかし、そのような霊の一致によって導き出された結論を無視し、様々なイデオロギーや自分勝手な考えによって、教会の秩序へ挑戦しようとする人々は、何時の時代にも必ず現れます。ここに人間の罪があるのです。そのような人々が、神様からも無視される存在となるのです。
それぞれの教会が、自分たちの礼拝の正しい手順を考えて話し合い、追求します。これが、神に召された聖徒の集まりが担う責務そのものなのです。だからパウロも、それぞれの教会が、各々「適切な手順」を追い求めるように命令を下したのです。今、私たちの名古屋教会も、大切にしている礼拝の「手順」や「適切さ」を各々が今一度良く考え、一致し、これを固く守り続けなければなりません。自分の思いや考えではなく、聖霊によって、御言葉と御心に各々真心をもって応答できる。そのような名古屋教会であり続けようではありませんか。
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