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牧師の説教ノート(9月29日/10月6日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章1〜11節

1.時代背景、舞台、文脈背景

 
 15章に入ってからは、パウロはコリント教会の人々の質問に答えるのではなく、自身が伝え聞いた懸念すべき自体について補足を行っている。14章までで、「自称霊の人問題」については語り終えたので、15章からは、本当の意味での「次の項目」に移っていると考えて良いだろう。

 15章から取り扱っているのは、パウロが12節で語っている通り、コリント教会信徒の中で、少なからず「死者の復活はない」と言い切る人々が出現している問題についてである。このようなことを言いだす人々が出るのは、まず自分が受け取った福音の意味に対しての理解が欠如しているためであるとパウロは考えたようであり、その為に前置きとして、まず自身がコリント教会の人々に対して宣べ伝えた福音の内容について再度復讐を行っている。

 これは、すでに聞いて信じた人々であるならば、誰でも理解しているはずのことである。もし、理解していないならば、何を信じたのか、何から救われるのかすらもわからず、信仰生活についても何もわからないまま終わりの時を迎えてしまうことになるであろう。それでも、もしかしたら憐みによって救われることになるかもしれない可能性は僅かながらに存在するものの、パウロはあえて、「信じたことが無駄になる」と言い切って、福音の報せの内容について、誰もが理解していなければならないことの必然性について言及するのである。

 実際、私たちクリスチャンの中には、「信仰」とか「悔い改め」とか、「贖い」とか「救い」とか、更には「福音」とか言う単語を軽々しく用いるものの、その単語の意味するところについて、目的や趣旨、意味合いについて改めて問われると良く判らないという人がそれなりの数存在するように思われる。

 信じて洗礼を受けはしたが、実際何から救われたのかは良く判っておらず、今更これを聞くことが出来ないと考えている人々も一定数おり、信じた当時は理解していたはずなのに、色々と学びが進むに連れて基本を見失って迷走している人々もちらほらと見受けられるようにも思える。

 私たちは、自分が何を信じたのか、何から救われたのか、何を握っているのか、について無頓着であってはならない。何度も聞きなれていることであったとしても、基本的な教理は何度も再確認して、自身の土台としなければならないのである。パウロは、この基本的な福音の内容、もっぱら二つの教理について端的に、簡潔に、わかりやすくコリント教会の人々に確認している。

 一つ目の教理は、「キリストが死んだこと」である。
 パウロは、この教理に付随して、
 ・「この死が私たちの罪のため」であったこと。すなわち、キリストが私たちの罪の罰の身代わりとなって死なれたこと。
 ・その後に墓に葬られたこと。(ローマ帝国によって死亡が確実に確認されてから死体引き渡しが行われたこと)
 ・これらの出来事が旧約聖書であらかじめ予告されていたこと。
 が付記されている。

 二つ目の教理は、「キリストが三日目に復活したこと」である。
 これに付随して、
 ・ケファや12弟子、500人以上の兄弟、主の兄弟ヤコブ、そして最後にパウロに顕現されたこと。
 ・また、これも旧約聖書であらかじめ予告されていたこと
 が付記されている。

 すなわち、初代教会で原初から大切されている福音の最も基本的な教理は、キリストが死んで、三日目に復活したことなのである。

 これに付随して、「永遠のいのち」「新しいからだ」、「神の子としての身分」の三つの恵みが導き出されるのであるが、それは、あくまでこの二つの教理に追記された形に過ぎず、一番の根元はやはり、キリストが死んで復活したというこの二つこそが福音の要なのである。

 これについてよく理解しており、この死と復活にどのような意味があるのかを良く理解し、かつ御言葉に照らし合わせて考えていたのならば(いや、考えていなくても)、少なくとも「死人の復活などない」と大々的に口にするようなクリスチャンが現れるはずもないのである。

 しかし、パウロがコリント教会の人々に対してそのように伝え、コリント教会の人々も、それを聞いて受け入れて信じたはずであるのに、その発言が横行するようになっている現状が教会の中にあるというのが現実のことであった。このような状態は現代の教会でも十分に起こりうることである。私たちは何を信じ、何から救われ、何を握っているのかについて、決して忘れてはならないのである。


○1〜3節
 「延べ伝えた」(1節)と、「伝えた」(2節)は、どちらも「ギ:ユーアゲリゾウ」の単語が用いられており、これは「福音(ギ:ユーアンゲリオン)」という名詞の動詞形である。
 福音とは、「良い知らせを伝えること」を意味する言葉であり、通常は、王の誕生や側位、戦勝の報告などの祝辞を届ける意味を持つ。
 これがキリスト教で用いられると、イエスの十字架の死からの復活、罪の贖い、救い主の知らせなどの意味で用いられるようになった。

 また、「受け入れ(ギ:パララムバノウ)」は、受け入れる、信じて受け入れるという意味合いがある。キリストについての良い知らせが告げ知らされ、そして、その知らせを受け入れたが故に、コリント信徒達の救いは成就している。

 福音の伝達は、キリスト教にとって最も重要なことであり、これを伝え、人々が受け入れるという所に、キリスト教信仰の全ての原点が存在する。福音を伝達し、相手に受け入れてもらうという所に、キリスト教宣教や伝道の全ての要素が集約されているのである。

 「改めて知らせる(ギ:グノーリゾー)」は、そのように最も初めに伝えられた大切な要素を、再度伝達するという意味で用いられている。
 最も大切かつ、根幹でありながらも、コリント教会はこの福音の報せについて、再度確認しなければならないぐらいこれを理解していなかった。
 しかし、これはそう驚くようなことでもなく、現代の教会の中でも、自身が何を聞いて、何を受け入れ、何を信じて洗礼を受けたのか、実はわかっていないというクリスチャンは大勢存在するのである。それ故、この福音の確認は教会全体にとって大変重要な作業であり、コリント教会を嘲笑するのではなく、自分たちのこととして受け止め、私たちは何度も福音の内容を確認しなければならない。

 2節では、さらに「延べ伝えた言葉(ギ:ティニ・ラゴウ・ユエッゲリアサメン)」を、「しっかり覚えているなら(ギ:ソウゼッセ)」と念が押されており、自身が伝え聞いた言葉や表現について良く覚えているようにと念押されている。
 ここから発展して、福音は、字義通り伝えなければならず、一言一句間違ってはならないと解釈する人々もいるが、やや読み込みすぎな気もする。
 実際パウロが言っているのは、福音の内容を意訳して改変するのではなく、内容や言葉に至るまで吟味して自身の中に保持し続けるようにという命令だろう。なぜなら、パウロもまた、自分で改変したり創作して福音を延べ伝えたのではなく、自分が聞いたとおりにコリント教会の人々に福音を伝達したからである。


○3〜5節
 ここで一通り、福音についての教えがパウロのはっきりした言葉で掲載されている。
 3節の「聖書にかいてあるとおり(ギ:カタ・タス・グラファス)」、「わたしたちの罪の為に(ギ:ヒュペア・トン・ハマルティオン・ヘモン)」は、全て「死んだこと(ギ:アペサネン)」にかかっており、4節の「聖書にかいてあるとおり(ギ:カタ・タス・グラファス)」と、「三日目に(ギ:ヘメラ・テ・トリテ)」は、「よみがえられたこと(ギ:エゲゲルタイ)」にかかっている。故に、ここで語られてるのは「キリストが死んで、よみがえった」ことであり、他の部分はそれを補足する装飾部分に過ぎない。
 しかし、この二カ条がニュアンスまで含めて正しく福音として延べ伝えられるためには、これを補足する様々な言葉が必要となる。それゆえに教理が複雑し、神学に至ったことは必然のことであろう。

 そういう意味でも、パウロがここでキリストが死んで復活したというシンプルな事柄に、「わたしたちの罪の為に」という補足事項を付け加えたことは意義のある事だし、すでに初代教会の時点で、キリストの十字架によって私たちの罪が除き去られるという概念は、キリストの十字架に付随して延べ伝えられていた福音の最も大切な根幹部分だったということが判るのである。

 また、4節冒頭の「また、葬られたこと(ギ:カイ・ホティ・エタフェ)」も、接続詞のカイが用いられていることから、「死んだこと(ギ:アペサネン)」の続きとして書かれており、葬りは単独の教理でなく、キリストが確実に十字架の上で死んだことへの確証を持たせることを助ける補足事項であった。とはいえ、実際に葬りがそのまま死亡の確認や各章につながるかという疑問も当然起こると考えられるが、死刑に、それもローマ帝国によって十字架刑になった人間が、死亡も確認されずに生きたまま葬りに引き渡されることなどありえないことである。ローマ帝国の兵士によって正式に死亡が確認された上で、許可を得てアリマタヤのヨセフもキリストの亡骸を引き取ったのであるから、「葬られた」という言葉は、単純な埋葬や葬儀以上の意味と、キリストの死への確信を聞いた人間に与えるのである。そのうえで「復活した」と語るのであるから、ローマ帝国によって死亡が確認されて確実に葬られた人間が、よみがえったという知らせは、聞いた人間を尚の事おどろかせたことだろう。

 「聖書にかいてあるとおり」とパウロが繰り返していることについては、イザヤ書53章を始め、聖書のあらゆる箇所で予告されているメシア預言を指していると考えられる。明確にこの箇所と指定することは難しく、様々な場所で語られ続けていたメシアについての総論、文脈、総合的な共通意見を指して概要的に表現していると考えるのが良いかと思われる。

 4節内に書かれている「よみがられたこと(ギ:エネゲルタイ)」は、直接法と完了形の現在で表現されており、キリストの復活は現在も続いているということを力強く言い表している。キリストは蘇生した後に再度死んだのではなく、一度キリストに起こった復活は、今現在も続いていること、即ちキリストは今も生きて神の右に座していることを力強く証しているのである。また、エネゲルタイは、「蘇生や黄泉がえり」という意味ではなく、起こされているという意味を持つ中受動の単語である。勿論、キリストを起こしたのは神であり、今もキリストを生かし続けているのもまた、神なのである。

 5節からは顕現の証が行われている。まずケファ(ペテロ)に現れ、それから12弟子に現れたと書かれているが、福音書がまず示す目撃者は、マグダラのマリヤ達などの女性であった。彼女たちの目撃情報が採用されていないのは、当時は女性の証言が公な証言として扱われなかったという背景事情がある。ペテロへの顕現については、福音書内にこそ記されていない者の、当時の教会の中では有名な出来事として語り継がれていたと思われる。

 権限の相手に「12人(ギ:ドーデカ)」と書かれているが、これは厳密に12人を指した言葉ではない(ユダが欠番していたので、当時は厳密には11人であったため)。12人とは、イエスの最初の内弟子達であり、後に使徒と呼ばれたグループの総称であると考えたほうが良い。(四天王が倒されて欠員が出ても、即時三天王とはならないのと同じ理屈である)


○6〜7節
 500人以上の兄弟たちに対して顕現したという記録は、使徒行伝や福音書には記載されておらず(エマオで出会った弟子たちなどは除く)、新約聖書の中ではキリストの復活についての力強い根拠となる表現部分である。
 新改訳などの訳文では、すでに眠ったものもいるが、大多数は生き残っていると訳されているが、原文では、「大部分は今も生き残っている(ギ:ホン・ホイ・メノウシン)」、「いくらかは眠りについたものもいるのであるが(ギ:ティネス・デ・エコイメセッサン)」となっていて、先に多くの人が生き残っていることが書かれ強調されている。

 キリストの復活の証言については、この手紙が書かれた当時に於いては、おそらく500人の大部分から実際に聞くことの出来るものであったことは確実のようである。当時のユダヤでは2〜3人から証言をとることが出来れば裁判でも証拠として立証されたことから、キリストの復活が動かぬ事実であるという法的な正面と考えることも出来る。何にせよ、キリストは確かに復活したのであり、当時はそれを確認できる人々が500人弱も存在したのである。故に、これらは勘違いでも幻覚症状でもなく、実際に起こったこととして私たちは受け止めることが出来るのである。

 また、「眠る(ギ:エコイメセッサン)」は、死んだことを意味する言葉なのであるが、これは詩的表現でも、比喩や隠喩でもなく、キリストによる復活を信じ受け入れたクリスチャンにとって、信じた事実の描写そのものという事が出来る。眠っている人間は、やがて目覚める。それゆえに、肉体が「死んで」もいつかは「目覚める」のであるから、文字通りキリストの福音を握って死んだ者は、目覚めに向けて眠っているのである。

 7節のヤコブは、教会の指導者であり、イエスの弟であったヤコブを指すと考えられる。


○8〜10節

 「最後に(ギ:エスカートン)」は、全ての終わりにという意味であり、この表現によって、パウロに顕現されて以降、主の顕現を見たものは誰もおらず、誰にもあらわれていないことが表されている。また、この手紙は後に天の教会で神の御言葉として追認されたのであるから、これ以降、復活のイエスが現れた、それに出会ったとうそぶく人々は、全て偽物であると断言することができる。復活のキリストの目撃者は、パウロで最後なのであるということを決して忘れてはならない。
 ちなみに、パウロへの「顕現」は、ダマスコ途上の出来事を指すのであり(使徒9章5-6節)、幻の中で「主に出会った」パウロの体験や、ヨハネの黙示録中でヨハネが幻の内に目撃した「主」については、「顕現」の対象に含まれない。

 「月足らずで生まれた者(ギ:エクトローマ)」は、早産を指す単語であるが、元々は、「外へ(ギ:エク)」と、「傷つける、害する(ギ:ティトロースコー)」を語源とした動詞から派生した言葉で、専ら、流産した胎児を表す言葉であった。
 流産をしなくても、早産で生まれた子供は奇形児などが多かった為、ギリシャの時代では月足らずで生まれたとは、出来損ないなどを揶揄する差別用語として用いられた。パウロがこれを用いたのは、自分でも9節で語っている通りに、教会を以前迫害していたからであり、それによって自身に何の価値もないことを表そうとしていたようである。

 「神の教会(ギ:エクレーシアン・トウ・セウー」と、教会に強調の表現が加わっているのは、パウロが自身の犯した罪について、その重大さを強調する為であると思われる。パウロは、他の箇所でも自分の行ったことについては度々思い出しては手紙の中にしるしている(ガラテヤ1章13節、ピリピ3章6節、Tテモテ1章13節等)。

 「私は今の私になりました(ギ:エイミイ・ホ・エイミイ)」は、直訳すると、私は私となった、私は私があるところの者であるといった訳し方が出来る。直接法、能動相、現在で書かれており、現在そうなっているという意味である。それは、神の恵みによって(ギ:カリティ・デ・セウー)と銘打たれてのことであるので、パウロが現在の様相になっているのは、自身の行動や実力の故でなく、ひとえに神の恵みによってそうなっているのだとパウロは言い切っているようである。
 この考え方はクリスチャンとして非常に基本的なものではあるが、通常、一般的なクリスチャンは、何か良いことが起こった時に「神の恵み」と考えるのに対して、パウロは何も起こらずとも現状そのものが神の恵みと考えて生きていることが判る。神の御業が起こらずとも、私たちの現状そのものが、すでに神の恵みの故であるという精神性は、私たちも大切にしたいものである。

 「ほかの使徒たちよりも多く働いた(ギ:アッラ・ペリッソテロン・アウトン・ペントン・エコリアサ)」は、そのままの意味として読んでよい。これは、他の使徒一人びとりと比べて自分がトップだというのではなく、他の使徒全員分よりも自分は多く働いているという意味で語られているようである。
 しかし、そのように多く働いたという事実すらも、神の恵みが無駄にならないためであったにすぎず、全てのことは神の恵みが働いたことによって起こっていたのだと訴え、パウロは自身の栄光を完全に無いものとしているのである。


○11節
 「わたしにしろ、他の人たちにせよ(ギ:エゴ・エイテ・エケイノイ)」は、パウロを含むすべての使徒たちのことであるか、それともキリストの顕現を目撃した人々であるのかについては断定することが出来ない。しかし、そのどちらであっても、キリストの福音を延べ伝えている人々を指すという意味では大差がないので、どちらにとっても問題はなさそうである。

 「あなた方は信じた(エピステウサテ)」は、コリント教会全体を指す言葉であり、元異邦人でも、元ユダヤ教出身者であっても、信じたものは同じであり、今は同じものを信じているということの確認である。私たちは信じた以上は、元々がどのような出自のものであっても同じものを信じているのであり、自身が何を信じているのかについては、はっきりわからなければならないのである。少なくとも、それを十分に理解しているのならば、「死人の復活などはない」などと言い出す人々は、決して現れることはないはずである。

着情報3.メッセージ

『何を信じたのか』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章1〜11節
中心聖句:『とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。』(Tコリント人への手紙15章11節)
 2024年9月29日(日) 主日礼拝説教要旨 

 15章から、手紙は新しい話題へ移ります。それは「死人の復活などない」などと言う人がコリント教会に存在することについてでした。福音を聞いて信じ、救われたはずのクリスチャンから、死人の復活などないと言う発言が聞こえてくるのは不思議なことです。しかしパウロは、実際にコリント教会にそのような人が少なからず居るのを見て、その原因が「福音を信じたにも関わらず、内容を理解していない」部分にあると考えました。私たちは、自分が何を信じたのかについて良く理解している必要があります。自分が何を信じたのか理解しないまま信仰生活を続けるなら、最後には信じた事実そのものすらも無駄になってしまうからです。

 3節から、パウロはコリント教会の人々に対して、「福音」と呼ばれるものがどのような報せであるのかを再度述べました。その内容の一つ目は、「キリストが死なれたこと」です。イエス様が、私たちの為に死んでくだったことは、信じて救われた人にとって一番大切な事柄です。これに付け加えてパウロは、キリストが死なれたのは「私たちの罪のため」であると教えました。何故ならイエス様は、私たちが受けるはずであった罪の罰の身代わりとなって死なれたからです。イエス様が死なれたことは、「葬られたこと」によって確認することができます。何故なら、他でもないローマ帝国自身が、イエス様を十字架にかけて処刑した後、確実にその身体が死んでいることを確認してから、遺体を葬ろうとする人々に引き渡したからです。このキリストの死は、旧約聖書の中で確かに予告されていたことでした(イザヤ53章他)。
 福音の内容の二つ目は、「キリストが三日目によみがえられたこと」です。これは単なる蘇生ではなく、死から完全に復活され、現代になっても尚、生き続けておられるという宣言です。この復活は、よみがえったイエス様が、ケファ(ペテロ)を始めとして、十二弟子や主の兄弟ヤコブ、500人以上の人々、そしてパウロ自身の前に現れたことで証明されています。この復活もまた、旧約聖書で予告されていたことでした(列王記20章5節、ホセア書6章2節)。

 では、「この二つの事を確かに聞いて信じているならば、「死人の復活などない」という言葉は出ないはずだ」と、パウロは考えたのは何故でしょうか。それは、福音を信じた私たちが復活できるようになる為、イエス様が十字架の上で、私たちの罪の罰の身代わりとなって死んで下さったからです。また、イエス様は、復活の約束が保証されていることを証明する為に、復活した人間の初穂としての御自分の身体を見せて下さいました。このように、イエス様が死んで復活したからこそ、福音の約束には希望があるのです。私たちがこれを聞いて、理解し、信じ、受け入れているのならば、「もしかしたら復活は無いかもしれない」と不安を抱く必要も無いはずです。このように、自分が何を信じたのかを良く確かめ、その意味を理解して福音の約束を握り続けていることは、私たちにとってとても重要なことなのです。しかし、私たちは自己中心であるので、救われた事実を知っただけで満足し、自身がどのような恵みを受けたのかについて興味を持とうとせず、自身が何を信じているのかも理解しないまま迷走して、生き方の定まらない漠然した人生を過ごしてしまいます。ここに人間の罪があるのです。

 私たちは、自分が何を信じ、何を握って信仰生活を送っているのか、端的かつ明確に他の人へ証することができるでしょうか。私たちは福音の約束を握り続ける為にも、感情だけでなく、理性によっても信じ、確信をもって救われていなければならないのです。だから教理についても良く学び、自身が何を信じたのかよく理解して、救いの人生を歩んでいきましょう。



『神の恵みの表れ』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章9〜11節
中心聖句:『ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。』(Tコリント人への手紙15章10節)
 2024年10月6日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨

 キリストが死んだ後、三日目に復活されたことを、パウロは福音の教理として理解させる為に、再度コリント信徒たちに語りました。パウロはその中で、自分自身もまた、復活したイエス様の目撃者であることを証します。パウロがダマスコへ向かう途上で復活したイエス様に出会い、悔い改めて使徒となった話は有名です(使徒の働き9章)。「その時に受けた恵みこそが、今の自分を形作っているのだ」と振り返るパウロの態度から、私たちも日々受ける恵みをどのように受け取るべきであるかについて、多く学ぶことができるのではないでしょうか。

 パウロは全ての使徒の中でも、その任命のされ方について大変異例な人でありました。もともとサウルと呼ばれていたパウロは、熱心なユダヤ教徒で、ステパノの迫害と殺害に加担し、新しく出現した教会に反対して、自らも迫害し荒らしまわる反キリストの代表者でありました(使徒の働き8章1-3節)。そんな彼が、ダマスコのキリスト教会を取り締まる為に向かっている途中、復活したイエス様に遭遇し、人生が180度転換して変えられたのです。それ以降、ローマ帝国によって処刑されるまで、パウロは使徒として誰よりも熱心に働き、その生涯をイエス様の為に捧げたのでした。しかし、誰より熱心に働いたにも関わらず、またそれを自分で認めていたにも関わらず、パウロはそれを誇ることをしませんでした。自分が教会の迫害者であったことをいつまでも忘れていなかったからです。パウロは自身を誇るどころか、「使徒の中では月足らずの者」、「最も小さい者である」と告白し、「そもそも使徒と呼ばれるに値しない者である」と述べて、どんな手柄があろうが、自分には何の価値もないと言い切ったのです。
 パウロは、「それでもあえて、誇れる部分があるならば、それは私を今の姿に変えて下さった神の恵みの御業に他なりません」と、コリント信徒たちに証しました。教会の迫害者であり、キリストの敵対者であった自分自身が、誰より忠実に働くキリストのしもべに変えられている今の姿そのものが、妙なる神様の恵みの表れなのであると考えたからです。だから、今更何か特別に良いことが起こらなくても、パウロは気にすることがありませんでした。たとえ降りかかる出来事が災難ばかりで、何一つ報われずとも、パウロは自分が今、『サウロ』ではなく『パウロ』とされていることそのものに、神様の大きな恵みを感じて感謝していたのです。だからこそ、彼はいつも喜んで献身し、人々に神様の恵みを証し続けられたのでした。

 自分の人生を振り返った上で、「昔に戻って人生をやり直しても、今の自分の状態に必ず戻って来られる」と断言できるクリスチャンがどのぐらいいるでしょうか。私たちが、イエス様と出会い、救われ、今この教会の中で立っていることは、決して当たり前のことではありません。しかし、私たちは自己中心的な性質を持っていますから、信仰生活の中で起こる災難にばかり目を向けて記憶し、良いことが起こっても感謝しないどころか気づきもせず、すぐに忘れ、「何かいいことが起こらないか」と期待します。そして、何も起こらなければ勝手に失望して「神の恵みなど何もない」とついつい口にしてしまうのです。ここに人間の罪があります。

たとえ期待したような良いことが起こらなくとも、自分に都合良く物事が運ばずとも、今立っている私たちの姿そのものが、人間の手では決して実現できない神様の御業の表れなのです。「神の恵みによって、私は今の私になりました。」とパウロが言っている通りです。私たちは、この世に生まれた時だけでなく、今までの人生の道筋までも全て含めて、神様の作品なのです。私たちは、自身を形づくっている神様の恵みに対して、どのぐらい真剣に目を向けているでしょうか。神様から受けた恵みに感謝して、これが無駄にならないように励みましょう。



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