1.時代背景、舞台、文脈背景
15章の本題にパウロが入り始める。その本題とは、「死人の復活など無い」と言っている人々への反駁である。
世間からはキリスト教と呼ばれる「教会」は、世の人々に対して、キリストが復活したことを宣べ伝える為の集団である。勿論聖書の中に表されているキリストの言葉を「教え」はするが、それは宣べ伝えられて信じた人々に対する訓練であるので、厳密にいえば、教会はキリスト「教」どころか、宗教ですらない。
この教会が、ペテロを中心に結成されてから2000年間、人々に延べ伝えてきたのはただ「キリストが復活した」という事実のみであった(そうでない期間が一定期間存在したことも否めはしないが)し、聖書にもそのことをただ延べ伝えるようにと命令されているのである。
何故なら、キリストが十字架の上で死に、復活したという事実こそが、私たちの人生において最も大切なことの全ての要素を含んでいるからであり、聖書の中に約束されている恵みや希望の全ては、このキリストの復活が無いことで一切無効となってしまうからである。
更に、この福音を聞いた人々に教会が求めるのは唯一つ、キリストの復活を信じるか、信じないかの決断である。信じなければ信じないで良い。それはその人の決断であるから。しかし、信じたならば、その人には多くの恵みと新しい活き活きとした人生が与えられる。これを信じて、今日も教会は人々に対して福音を宣べ伝え続けているのである。
死人の復活とは、キリストの復活のことではなく、世の終わりにキリストの復活を信じた人々が蘇って、永遠の命を与えられるという意味での「死人の復活」である。キリストの復活とは厳密には違うものなので注意が必要になる。また、ここでいう「死人」は、世の一般人全員のことではなく、キリストの復活を信じた上で死んだ聖徒達の事を指す。
教会が宣べ伝える福音の中で、死人の復活という要素が欠けると、様々な矛盾が起こる。
1.まず何より、キリストは復活したと宣べ伝えている内容に矛盾する。死人が復活しない場合、死人の復活の初穂(第一号)としてキリストが復活したというロジックが崩れる。死人の復活がないなら、キリストの復活は一体何の「第一号」だったのだろうか?
2.キリストが復活し、それを信じれば死人も復活すると宣べ伝えている全ての宣教行為が偽証となる。これは読んで字のごとくである。このような誰の特にもならないような偽証を、命を懸けて行うような愚か者が果たしているだろうか。
3.全ての信仰が茶番になる。どうせ何をしても滅び、復活も存在しないというなら、私たちが神という存在と向き合う理由が一体どこにあるだろうか?
この三点に於いて、死人の復活が無いという主張は完全に退けられる。これを信じるにしろ、信じないにしろ、確かにキリストの復活はあったのであり、この手紙が書かれた当時は、その目撃者は500人を超えたのである。
では、何故死人の復活は無い、などという勘違いが現れたのだろうか。
@主の復活が既に過ぎ去ったのではないかという不安
「復活は既に済んでしまった」(Uテモテ2章18節)
「主の日は既に来た」(Uテサロニケ2章2節)
これらについては、クリスチャンならば誰でも不安に思うことである。自分の罪意識が深い人ほど、自分は再臨の時にきっと置いていかれてしまうと思い込んでも不思議ではない。実際、置いて行かれてしまったらどうなるのかという前提で、レフト・ビハインドという小説や映画が作られたこともあった。初代教会の時代から、ことあるごとに既に復活は過ぎたと吹聴する者も多く、また勘違いや思い込みからそう考える人間も一定数出てしまうのも不思議なことではない。
しかし、このように実際に、死人の復活があったのか、なかったのか判らないような形で、キリストの再臨と死人の復活が起こることはあり得ない。来臨したキリストは全ての人々に判る形でこの世の権力を打ち砕くのであるし(24節)、実際に既に起こったのであれば、キリストを信じていない者までも含めて、誰にでもわかり、かつ全員それを認めざるを得ない形で、死人の復活は起こしているはずだからである。
A論理の帰結についての疑問点。
キリストは神なのだから、死にも復活も出来るだろうし、それが保証になることないのではないか、という疑問を抱く人々は必ずいるだろう。しかし、実際にキリストは完全に人間であったのだし、公生涯の中でさえ、尚、普通の人間が行うことの出来る形でしかその力を発揮されることは無かった。キリストが行った数多くの御業は、全て、旧約時代の預言者達でも行うことの出来た範囲のものであり、人間性を逸脱して何かを行われたことは無かったのである。故に、復活についても、人間が達成できるからこそ復活されたのだという事が出来る。キリストは、元々子なる神であったが、己を空しくして、完全に力の無い人間としてこの世に生まれ、そして罪を犯さずに完全な人として生きられたのである。
また、キリストは完全な人間であるから例外なく復活したのでは、と考える人もいるであろう。これについてもそうではない。何故なら、もし死人全体の身代わりとなり、またその復活を実証するという目的が無ければ、神の子が人になる意味も、また復活して見せる意味もなかったからである。罪を贖って赦す為だけならば、十字架の上で死んだあと復活する必要はなかったのだし、その姿を見せる必要性も皆無であった。けれども、死人が復活するのであるから、人間であるキリストも復活しなければならなかったし、それを証明するために姿を見せられたのである。
いずれにせよ、全ての疑問については論理的に応答することが出来る。理詰めにおいても、死人の復活が無いという論理は論駁することが出来るのであるから、キリストの復活を信じている人々は、いつだって安心して、この約束を握っていることが出来る。キリストが死んだのは、「私たちの罪の為」なのであるし、キリストが復活した理由は「死人を復活させる為」以外にあり得ないのであるから。
〇神に背く偽証人
キリストの復活は無かったのに、まるであったかのように勘違いして宣べ伝えていたのだとすれば、福音宣教を始めた使徒たちはみな偽証人ということになる。律法によれば、勿論パウロも含めて、神についての偽証人は全員石打ちで処刑されなければならない。また、神が宣べていない祝福を捏造する預言者は死ぬべきであると旧約聖書は宣言している。
〇むなしい
むなしいは、中身が空っぽであることを示す言葉。それも何も入っていない状態を指す。
ジャムであるならば中身を全て食べた上で、きれいに洗ってぴかぴかの状態を指すぐらい何も残っていない。
空虚なものを信じるというのはそういうことである。
食べ終わったジャムの瓶ぐらいには何か良い効能がこびりついていることもあるだろうか。いや、まったくないのである。
〇いまもなお、罪の中にいる
この罪の中、というのは、私たちが起こす失敗としての、行為としての罪ではなく、神によって罪びとに定められているという「罪人」としての身分についてのことである。洗礼を受けた後も、クリスチャンは当たり前のように罪を犯すが、そのいくつかが許されていないなどといっているのではなく、私たちが裁かれ、滅ぼされるべき罪人としての身分は何も変わっていないということを言っている。
そして、死人の復活が無ければ、そもそもキリストの復活も必要なく、復活する必要がないのであるなら、罪があろうがなかろうが、死ねば同じなのであるから罪が十字架によって贖われる必要もなく、私たちの罪びととしての身分が改められる必要もない。全知あまねく、人間に課せられる最後の罪は等しく永遠の滅びだからである。
それ故に、死人の復活が無いならば、論理的に私たちの罪も、未だ赦されていないことになる。赦されても居ないものを、赦されたような気になって喜んでいるというならば、本当に私たちの行っているあらゆる信仰は空しいということになるだろう。
そのような状況の中で、どうやって神の義認など信じることが出来るだろうか。神が憐み深いと言われて、何を根拠にそれに縋ることが出来るだろうか。死人の復活が無いという、ただそれだけのことで、私たちの信仰はここまで根本から無益に、また無効なものへと変わってしまうのである。
〇あわれむべき存在
「あわれむべき(ギ:エレイノス)」は、憐れべき、可哀そうな、惨めな、という意味がある言葉である。これに加えて、「パントーン・アンスローポン」が追記されることで、世界でも最も、全ての人で最もみじめであるという表現になる。
実際、ありもしないものを信じて、そこに人生の活路を見出し、それにすべてを捧げている姿はみじめ以外の何物でもないだろう。実際、世の人々にとって、クリスチャンとはそういう人種に見えているのであるから。
「のみ(ギ:モノン)」は、単なるという意味の副詞で、「キリストへの望み(ギ:クリーオウ・エルピコテス)」や、「このいのち(ギ:テ・ゾーエ・タウテ)」の両方にかかっている。新改訳2017などでの、「地上の」という部分は注釈による追記であり、原文にはそのような単語はない。
現世にのみ限定される上に、ありもしないものをあると信じている思い込み人生。それで幸せに生きているのだとすれば、確かに地上でもっともあわれまれるべき存在であるといっても仕方のないことである。
それどころか、キリストの苦難を受けて地上で生きるという割の合わない人生を送る羽目になり、希望を持たずに好きなように生きている人々と比べてすら、益にならないことに見込み違いから割に合わない労力を捧げている愚か者ということになって、やはり、この地上で最もみじめな存在であるということに変わりはないのである。
なら、神など忘れて楽しく生きたほうが、よっぽど有意義な人生となるに違いない。
しかし、実際に神は存在し、キリストの復活はあり、死人の復活もあるのである。それを肌で感じているからこそ、人は欲望のままにではなく、理性的に行動するように良心に支配され、本当の意味で混沌とした世の中になるのではなく、秩序や善意が保たれているのである。
神がいるというのならば証明して見せよ、というのならば、秩序が人間の心の内で貴ばれている事、また、この「むなしいはずの教会」が、2000年の間、決して途絶えずに現在も人を救い続けていることがその証明となるであろう。
2.詳細なアウトライン着情報
〇死人の復活が無いのだとすれば
12a ところで、どうして、あなたがたの中に、「死者の復活はない」という人たちがいるのでしょうか?
12b キリストは、死者の中からよみがえられたと(11節で既に言った通り)宣べ伝えられているというのに。
13 もし、死者の復活はないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
14a そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しくなります。
14b あなたがたの信仰もまた、空しいものとなるでしょう。
15a (それどころか、)私たちは神についての偽証人ということにさえなります。
15b なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえせなかったはずです。
15b それなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたといって、神に逆らう証言をしたことになるからです。
16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
17a そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなた方の信仰は空しいです。
17b 今も尚、自分の罪の中にいる(罪人のままな)のですから。
18 そう(私たちが未だ裁かれるべき罪人のままであること)だとしたら、キリストにあって眠ったものたちは、滅んでしまったことになります。
19 もし私たちが、この(地上の肉体的な)いのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているなら、私たちは、すべての人の中で一番みじめな存在となるのです。
着情報3.メッセージ
『救いの保証』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章11〜19節
中心聖句:『もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。』(Tコリント人への手紙15章13節) 2024年11月3日(日) 主日礼拝説教要旨
本日の箇所で取り扱う内容は、キリスト教における根幹の部分で、かつ、信じたクリスチャン達が一番不安や疑問に思っていると思われる部分です。「イエス様を信じれば本当に永遠の命が与えられるのだろうか?」。この疑問は常に私たちの脳裏に存在するものです。教会に反対する人々もそれは良く知っていて、「死人の復活など無い」と言いふらし、多くの兄姉を不安に陥れようとしていました。「死人の復活」とは、世の終わりにイエス様が再び地上においでになった際に、イエス様の復活を信じた人が、死者の中から復活するという約束の事です。「実のところ、結局蓋を開けてみなければ分からない」と、ひそやかに考えている聖徒も少なくないように思われます。私たちはどうやって、この約束に確信を得れば良いのでしょうか。
私たちが罪の赦しや、永遠のいのちの約束について「信じることができる」と判断できる材料は、2000年間教会が宣べ伝え続けてきたキリストの復活です。これが事実であるという前提に立っているからこそ、私たちは福音の約束の真偽について、「信じる」という判断を下すことが出来ます。既に5〜6節で語られた通り、このコリント人への手紙書かれた当時は、男性だけで500人以上の証人が「復活したイエス様を見た」と証言していました。現行の裁判でも、複数人の証言は明確な証拠として扱われますから、「キリストの復活は確かに事実である」とみて問題ないはずです。だからこそ、私たちはそれを前提に、罪の赦しや永遠の命の話題に移り、これを検証していくことができます。故に、全ての土台はキリストの復活なのです。
では、キリストの復活が事実であることを前提に考えると、何をいう事ができるのでしょうか。それは、「死人の復活」は必ず起こるということです。何故なら、「死人の復活」が無いと言う前提に立つと、全ての論理が破綻してしまうからです。何故でしょうか。それは、キリストの誕生も、苦難も、死も復活も、この「死人の復活」を目的に行われたことだからです。目的が無くなれば、必然的に全ての行為が無駄となります。全知全能である父なる神様が、目的もなく意味もない行動によって、自分の大切な独り子を無駄に死なせるようなことがあるでしょうか。「死人の復活」が果たされる為に、イエス様は人間として生まれて下さり、私たちの罪の罰の身代わりとなって十字架にかかって下さいました。もし、この前提が覆されるというなら、私たちの罪も許される必要がなくなってしまいます。だからこそ、死人の復活が無いなどという言葉は荒唐無稽なのであり、論理的に見てもあり得るはずがないことなのです。
何故、「死人の復活」が目的だという事が出来るのでしょうか。それは、私たちを創造された神様が私たちの事を一方的に愛していて、私たちが一人も滅びずに救われる事を願って下さっているからです(ヨハネ3章16節)。私たちが、永遠のいのちと新しいからだ、神の子としての身分を受けて、神様と永遠に共に生きる者となることが、神様の御計画の最終目標です。そこに至るために、私たちは必ず復活する必要があるのです。だからこそ、神様の最終的な目的を見据えれば、死者の復活も含めて、全ての約束は実現されると断言できるのです。
これら全ての報せの中心は、キリストの復活です。だから、私たちクリスチャンは、いつもキリストが復活されたことを宣べ伝え続けます。これを信じるか信じないかは、その人次第でありますが、しかし信じたというのならば、そこには確実に罪の赦しと、死者の中からの復活が約束されているのです。私たちは唯、自分が罪びとであることを認め、悔い改めて、イエス様の復活を信じると口にすれば誰でも十字架の血潮によって救われます。ですから、キリストの復活を信じ、自身の復活も信じて、今日からでもイエス様を信じて救いに入りましょう。
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