1.時代背景、舞台、文脈背景
今日の箇所は短いながらも大切な箇所であり、前の週と同じく、キリスト教の根幹となる部分である。
すなわち「何故キリストは復活したのか」そして、「何故キリストの復活を信じなければ私たちは救われないのか」という最も重要な教えがここに込められている。
結論から言えば、キリストの復活は私たちの復活の保証であり、キリストにあって眠りについた人々が復活することに対する手付金のようなものであった。
キリストの復活を信じて悔い改めた人々は、キリストと全く同じく、キリストに似たものとして復活するのである。
ここで説かれていることで大切なことがもう一つある。
全ての人がアダムによって生まれて罪に定められている通り、罪が赦され復活に預かる人は、キリストによって生まれなければならないということである。
それゆえに、キリストの復活を信じることが、救いに入る条件としてあげられているのである。
キリストの死と復活を信じ、その信仰を口に出して言い表した者は、キリストよって生まれ、キリストに属する者として世の終わりの再臨の際に数えられるようになる。
その時、その人々はいのちの書に名前が書かれており、罪に定められることなく、福音の約束である、永遠のいのちと新しいからだ、神の子としての身分を与えられるのである。
ここで言われている死人の復活は、ただの死んだ状態からの蘇生ではない、ということも十分に覚えておくべきである。
復活とは、永遠のいのちを得て、新しい姿に作り替えられるという工程を経て始めて成し遂げられる。
死んだ状態から蘇生した人は、新旧約合わせて幾人も存在した。
キリストですら、自らの手で幾人もの人を蘇生させた。
しかし、それでも尚、キリストが「初穂」と呼ばれるのは、「栄光の姿に作り替えられて、永遠に生きる者となった私たちと全く変わらない完全なる人間」の第一号であったが故に「初穂」なのである。
したがって、キリストは今も生きているが、実はその条件は私たちと全く変わらない。
完全な人であり、神の御子でもあり、そして今も永遠のいのちによって生きている。
これが私たちの主である、イエス・キリストなのである。
〇20節
「しかし(デ)」は、強い反意語であり、直前までの死者の復活が無い場合の惨めな仮定を全て覆している。
更に「今や(ヌニ)」を重ね、そこに「蘇られた(ギ:エゲゲルタイ)」という完了自制の動詞を合わせることで、疑うこともなく、キリストが今蘇られたことを事実として宣言している。
完了形は「蘇られたし、今も尚蘇ったままである」という現在完了的な意味合いの時勢であり、復活の主イエスは、今の私たちが生きる現代においても生きておられるので、この句は決して過去形になることはない。
「初穂(ギ:アパルケー)」は、元々はギリシアのいけにえの用語で、供え物の初めに髪の毛を切って火にくべたことから、何かのものの一部を切り取って捧げるときに用いられる用語となった。
特に旧約律法に於いては、アパルケーは最初に収穫した麦の束を指し(出エジプト23章19節、レビ記2章12節etc..)、これは古来より、主の神殿への献げものとされていた(レビ記23章10〜11節)。この場合、「眠った人たち(ギ:ケコイメメノン)」の中からよみがえる魂の収穫の第一号としての意味がある。そして、初穂は「収穫の最初の一束」であることから、当然後に、次々に束が収穫されていくことも意味する。二束目が無い収穫は初穂とは言わないからである。キリストは、決して子なる神としての自分の力で復活したわけでも、子なる神による特別枠として復活したわけでもない。完全に人間が受け、人間が実現できるというレギュレーションの中で、人間として復活されたのである。それは、公生涯を行われている間でも常にそうであった。
〇21節
「死者の復活(ギ:アナスタシス・ネクローン)」は、いわゆる死んだ状態からの蘇生という意味ではない。
死んだ状態から蘇生した人は、旧約聖書、新約聖書共に登場するのであるが、蘇ったその人たちも、寿命が来れば再び死んだのである。
しかし、キリストの死によってもたらされた死者の復活は、一度蘇れば決して死ぬ事の無い命として与えられるものである。
それゆえに、蘇生と復活は似ているようであって、まったく違う概念であることは何度でも確認しておくべきことである。
死が、アダムという一人の人間の失敗から起こったように、復活はキリストという一人の人間を通して起こるのであるという論調は、ローマ人への手紙5章の中で詳しく展開されている。
また、キリスト完全な一人の「人間(ギ:アンスローポウ)」と言い切ることで、キリストが確かに受肉し、一人の何の力もない人間になられたという事実が確認されていることも、決して見逃してはならない。
〇22節
21節で触れられた、死をもたらした一人が、アダムであるとはっきり宣べられている。
アダムが犯した罪は、その後の子孫全員に波及し、その肉体だけでなく、霊的な堕落をも引き起こした。
肉と霊共に堕落しきっている人間には、決して自身の力で救いに預かる権利を得ることはできない。
こうしてアダムは、人間の肉体性の故に全ての人に罪を伝播させたのであるが、逆にキリストは、神の御子が死なれるという霊的意味と、十字架の死という実際的な肉体的の苦しみによる贖いによって、全ての人に死に打ち勝つ力を与えた。これによって、「キリストの十字架による罪の罰の身代わりの死と、三日目の復活は真である」と信じ、口に言い表して告白する人は、全ての罪が赦されるのである。
しかし、この救いは全ての人に齎されるのではない。
私たちは生まれた時点でアダムの子孫であり、アダムとかかわりのある罪の眷属であるが、キリストとの関りはただこの世に生まれるだけでなく、自ら信じて告白し、キリストによって生まれ直さなければならないからである。
キリストよって生まれず、キリストに関わらないであれば、キリストの来臨の際に、私たちはもともと関わっているアダムの死に属する者とされ、キリストに関わるならば、その人は来臨の際に、永遠のいのちに属するものとなるのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇死人の復活が無いのだとすれば
20a しかし、今やキリストは、死者の中からよみがえられた。
20b (キリストを信じて)眠ったものの初穂として。
21a 死は一人の人を通してやってきました。
21b 同じように、死者の復活も一人の人を通してくるのです。
22a アダムにあって、全ての人は死んでいます。
22b 同じように、キリストにあって、全ての人は生かされるのです。
着情報3.メッセージ
『永遠の初穂』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章20〜22節
中心聖句:『アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。』(Tコリント人への手紙15章22節) 2024年11月10(日) 主日礼拝説教要旨
先週に引き続き今日の箇所も、私たちの信仰に於ける、根幹的な部分を取り扱っています。それが何かと言えば「キリストの復活」についてです。何故キリストが復活したのか。何故それを信じなければ救われないのか。私たちにとって身近で大切な問いであると思います。この問いに対して私たちは無知であってはなりませんし、良く学ばなければなりません。
神の御子として、罪のない人間として、キリストが霊肉共に私たちの罪を贖って下さったにも関わらず、何故「キリストの復活を信じた人間」しか救いに預かることが出来ないのでしょうか。それは、アダムに「在る」者全員が死を受けるように、キリストに「在る」者だけが死者の復活を受けるからです。「在る」とは在籍する、即ち属するという意味であり、属するとはそこから生まれたことを意味します。私たちはアダムの子孫なので、生まれた時からアダムによる死、即ち永遠の滅びに属しています。そこから救われる唯一の道は、アダムの所属から転属し、キリストに属する者が受ける死者の復活に預かることなのです。しかし、アダムに属する者からキリストに属する者へ転属し生まれ変わる為には、自分の意志による決断と宣言が必要です。更に宣言した後には、その手続きの為にこれまで犯した全ての罪の対価を支払い清算する必要もあるのです。イエス様はその為に神の御子として、更に罪のない完全な一人の人間として十字架に掛かり、私たちの罪の罰の対価を先立って、霊肉共に支払って肩代わりしてくださったのです。それゆえ、私たちは「私は今日、キリストに属する者へと生まれ変わる」と神に向かって宣言するだけで、キリストに属する者となることができるのです。このキリストに属する者になると決断することを「回心」と呼び、「キリストを信じる」と宣言することを「信仰告白」と呼びます。そして、その誓約と生まれ変わりの儀式がバプテスマなのです。
ですから「死者の復活」は、イエス様の十字架の犠牲によって罪の対価を支払い、自らの意志で「キリストに属する」と宣言した人にしか受けることが出来ないのです。これは果たして真実だと確信して良いことでしょうか。これが真実であることは、キリストが今や復活し、今日も存在し続けていることにより保証されているとパウロは宣言します。キリストは十字架による死から三日目に復活し、私たちの前に現れて、その身体を見せて下さいました。犠牲となったキリスト本人もまた、死者の復活に預かることが出来る普通の人間の内に数えられていたので、復活することが出来たのです。復活したキリストは、初めに復活したことを除けば、完全に私たちと同じただの人間でした。だから完全な普通の人間としてキリストが受けたものは、私たちも同じく確実に受けることが出来るのです。復活したキリストが受けたもので、私たちが得られないものは何一つありません。それを証明し、私たちに目撃させる為に、キリストは最初に「死者の復活」を受けたのです。それ故、キリストは収穫された最初の麦束である「初穂」と呼ばれました。二束目が無い収穫物は「初穂」とは呼びませんから、キリストが「初穂」であり続ける限り、私たちもまた、二束目、三束目として、死者の復活に預かることが出来るのです。だからキリストは、復活に預かる私たちの長子であり、永遠の初穂なのです。
しかし、私たちはキリストが復活し、その身体を見せて下さったにも関わらず、また、キリストに属する為の全ての障害が取り除かれているにも関わらず、これを信じず、拒絶し、「死者の復活など無い」といって、かたくなにアダムに属し続けることが正しいと確信し続けてしまいます。ここに人間の罪があるのです。私たちは、自身の今後について、どのような決断を下しているでしょうか。キリストに属する決断を行い、永遠のいのちに預かりましょう。
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