1.時代背景、舞台、文脈背景
キリストの復活に在って、収穫の一束目である初穂こそキリストであるというのならば、二束目、三束目の収穫は一体いつ行われるのであろうか。これは、私たちにとっては当たり前のことのように思えても、当時の初代教会に於いては当たり前のことではなかった。
主が再臨されるときに、初めてキリストに属している人々が収穫の二束目とされるのであると、ここではっきり告げられているのである。これはTテサロニケ4章16節でも触れられていることなのであるが、こうしていくつもの手紙の中で触れられていることからも判る通り、キリストが一人目の復活者であるのならば、二人目がいつ死者の中から復活するのかについては、多くの人が疑問に思っていたことなのであった。
それ故に、「死者の復活はない」だとか、「復活は既に起こってしまった」と吹聴して人々を不安に陥れるような人々が現れたのである。そのような意味で、復活には順序があることは教理としてはっきり人々に対して告げ知らされねばなかった。終末に関する教理は、私たちに危機感を抱かせると同時に、安心感も与える為の必要なものなのである。
キリストが、誰に目にも明らかな形で再臨されるという教理に加え、キリストが再臨されるまでは誰も死者の中から復活しないという教理は、私たちにとって福音である。自分の知らない間に復活が終わり、自分だけが取り残されるのではないかという不安は、常に私たちに付きまとうからである。
しかし、そのようなことは起こりえない。裁かれるべき人の裁きが、知らない間に終わってしまっていることはなく、また救われるべき人の救いが知らない間に成し遂げられるようなことは無い。
神の裁きから逃れられる人が一人も居ないのと同様に、神の救いからこぼれることができる人とて、一人も居ないからである。
〇23〜24節
「順序(ギ:タグマ)」は、元々軍隊一隊を表す言葉で、そこから軍隊の中の地位や順列を表す言葉となった。すなわち、長のキリスト、それに連なる再臨の時に蘇った人々、といった意味合いで軍隊の内部構造が示されており、これを総括して「順序」と訳しているという事になる。
まず頭はキリストであり、それに連なる人々はキリストの再臨の後に復活する人々である。これに例外はなく、キリストの再臨の前に復活して二人目が現れるようなことは一切ないのである。
もちろん、これで最後ではなく、最終的には「神がすべてにおいてすべて」となられることで、この順序(タグマ)は完成形に至るのである。
すなわち、終末が来ただけで復活は完成しない。その後、全ての勢力にキリストが完全に勝利され、神に於いて全てが一つになる時に初めて「復活」は完成するのである。
だから、「終わり(ギ:テロス)」は、終末を指す言葉であるが、決してこの終末自体、即ち主に在ってキリストに属していない人々の復活についてパウロは言及していないし、この終末(テロス)自体は、キリストを頭とする「順列(ギ:タグマ)」の中には何も入っていないのである。あくまで、「それから(ギ:エイタ)」は、「父である神」が「すべてにおいてすべて」となるまでの一連の流れを文脈上指すものである為、この点について読み違えることがあってはならない。
ちなみに、キリストに在って復活する者の中の順列については、前述のTテサロニケ14章15節等で語られており、この箇所に於いてはキリストに在って復活するものはひとくくりにされて、分別されてはいない。
「まず初穂のキリスト、次に来臨の時にキリストに属している者が復活する。その後、終末が着て父なる神にキリストが王国を父である神に渡されるとき、父なる神がすべてにおいてすべてとなって、復活が完成する」のである。
余談だが、「最初(ギ:アパルケ)」である初穂なるキリストから、「次(ギ:エペイタ)」のキリストの来臨まで、既に2000年以上の時が経過している。したがって、キリストの来臨から、終わりが来るまでは同じぐらいに時間が必要であるかもしれないという事は、考慮に入れるべきかもしれない。キリストが来ればすぐに終わりの時に本当になるかどうかは誰にも判らないからである。
この理論を、黙示録20章の「千年の間」という御言葉と組み合わせて、「あらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼす」までに1000年の時間が掛かると考える「千年王国思想(キリアズム)」が生まれることになった。ラテン語では、ミレニウム。転じてミレニアムという言葉はここからくる。
この千年王国思想は、実はキリストの時代の前から、正統とは言えないユダヤの黙示文学の中では思想が既に登場しており、これらの思想が組み合わさって形成されたものと言える。死人の復活をファリサイ人たちが信じていたのも少なくともこの辺りからの影響があると考えられる。
しかし、これについては、様々な論説が出ており決着がついて居ない。実際には、その時が来るまでは決して判らない事であろう。
〇25〜28節
「すべての敵をその足の下に置くまで」は、詩編110篇1節から。
「神は万物をその足の下に従わせた」は、詩編8篇6節からの引用である。
私たちにとっては、まだ大分先の事かもしれないし、もしかしたら明日の事かもしれないが、少なくとも、キリストが全ての敵、最終的には「死」を打倒してしまわなければ、本当の意味での終末はやって来ないとここではっきり宣言されているのである。
今の私たちにとってはそこまで重要ではないかもしれないが、キリストの来臨に直面した世代にとっては、ここからいつまでが「終わり」なのかについて、よく考える指針になるのかもしれない。
「権威(ギ:エクゾウシアン)」と「支配(ギ:アーケン)」は、霊的な権威を表すユダヤの黙示文学用語で、直接的にはその時代の国家権力などを表すのであるが、実際にはその国家権力を支配するこの世の君、空中に勢力を持つもの、即ちサタンと呼ばれる存在とその勢力と、キリストとの闘いについて語られていると考えられる。その頂点として、死が滅ぼされるというのならば、この「死」もその名前以上に特別な意味がある存在なのかもしれないし、これがクリスチャンを復活させるというプロセスなのかもしれない。
少なくとも、どの道に於いてもキリストの働きは、死者の復活を成し遂げて、父なる神が「すべてにおいてすべて」となる時までは決して達成されることがない。したがって、この時点で「死者の復活など無い」と主張するのは、到底荒唐無稽の話なのである。
また、27節に万物が従うの中に父なる神ご自身は含まれていないという、ある意味当たり前のことが明記されているが、この但し書きは28節への導入である。
27節については訳が入り組んでいてややこしい部分があり、読んでいる人間に判断が委ねられるので、随分と日本語訳でも回りくどくならざるをえない。
直訳では、「25節 なぜなら、彼はあらゆる敵を足元に置くときまで、王であるべきだからである。」「27節 何故なら、彼は万物が従わせられたと言う場合、万物を彼に従わせた方は別である」「28節 万物が彼に従わせられた時、御子自身が、万物を彼に従わせた方に従わせられるであろう」となる。
ここで語られている通り、全ての敵を従わせ支配を確立した後は、御子キリストは父なる神にその王権を渡した上で、父なる神に従属するのである。キリストが王なのは、「全ての敵をその足の下に置くまで」と定められているからである。その役目を果たした時、キリストは父なる神に一人の救われた人として従属し、かつ、父なる神と共に三位一体の不可分的な存在となり、「すべてにおいてすべて」の一部となられ、また、私たちと共に新天新地を相続する長兄となられるのである。
これによって、父なる神によって「すべてにおいてすべて」が確立し、私は在ると言われる方が、全てを統べ収めて、神の救いの計画は完全に完結するのである。その計画の中心に常に置かれているのは、他でもない罪びとであるわたしたちであり、そのようなわたしたちに注がれる神の愛は、どこまでも計り知れないのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇復活について
23a しかし、(復活する人々には)それぞれに順序(順列)があります。
23b まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
24a それから終わりが来ます。
24b そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼします。
24e (そして、勝ち取った)王国を父である神に渡されます。
25a キリストは王として治めることになっているからです。
25b (いつまで?)すべての敵をその足の下に置くまで。
26a 最後の敵として滅ぼされるのは、死です。
27a 「神はその万物をその方の足の下に従わせた」のです。
27b (注釈:)しかし、万物が従わせられたという時、そこには万物をキリストに従わせた方が含まれていないことは明らかです。
28a そして万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自身に従わせて下さった方に従われます。
28b これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。リストにあって、全ての人は生かされるのです。
着情報3.メッセージ
『すべてにおいてすべて』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章23〜28節
中心聖句:『そして、万物が御子に従うとき、御子自身も、万物をご自分に従わせてくださった方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。』(Tコリント人への手紙15章28節)
2024年11月24(日) 主日礼拝説教要旨
私たちの復活などはない、という人々に対し、パウロの反論が続きます。「私たちの復活が確実にある」ことは22節までの説明でも明らかでしたが、そこから更に一歩踏み込んで、パウロはコリントの人々に死者の復活が行われる根拠を説明します。それは、「死者の復活が行われなければ、再臨したキリストの王としての仕事が終わらない」という新しい教理でした。
キリストは、完全にただの人間として復活した、最初の一束目(即ち初穂)です。ならば、二束目、三束目の復活者はいつ現れるのでしょうか。現代の私たちは、この問いの答えが、「キリストの再臨の時である」ことを当たり前のように知っています。しかし、当時はまだこの教理が明らかにされていなかったので、「死者の復活」が具体的にいつ起こるのかについてわかっている人はごく少数でした。態々別の手紙(Tテサロニケ4章16節)でも触れて語られるぐらい、多くの人がこのことを不安に思っていたのです。「死者の復活は、私の知らない間に終わってしまったのではないか」という問いは、信仰を揺さぶり不安にさせます。その不安に対してパウロは、「まず初穂であるキリストが復活し、次に、その来臨のときにキリストに属している人たちが復活する」と、はっきり教理を示したのです。私たちが待ち望む二人目以降の復活者は、キリストが再臨した時に現れます。それから、万物の終末がやってくるのです。
キリストが再臨した後、私たちが復活するまでの間に大切な事が行われます。それは、あらゆる支配と、あらゆる権威、権力が滅ぼされることです。「全ての敵を足の下に置くまで、キリストは王として治める」ことになっているからです。私たちの王であるイエス・キリストの働きは、全ての敵を足の下に置くまで全うされることがありません。何故なら、イエス様に関する預言は、全て成就されなければならないと御言葉によって宣言されているからです(ルカ24章44節)。そして、「最後の敵は、死です」と語られている通り、再臨されたイエス様の戦いは、「死」が滅ぼされ私たちが死人の中から復活することによって完成します。私たちの復活は、イエス様の働きの総仕上げであり、これ無しには働きが完成することがないのです。私たちが復活し、キリストに似た者とされた後、ようやくイエス様は自らの王国を父なる神様にお渡しになられます。そして、三位一体の神様が万物を従え、「すべてにおいてすべて」となられるのです。神様が、天地創造以来取り組まれてきた救済の計画も、これにより完成に至ります。私たちの復活がこのような立ち位置にあるからこそ、死者の復活が確実にあると確認できるのですし、「死者の復活など無い」ことが論理的にもあり得ないことがわかるのです。
これ程までに、私たちは神様の計画に中心に置かれています。自分自身の罪の姿を振り返り、自分の行動の一つ一つを鑑み、自身の信仰の本質を省みる時、私たちはこの事実にどう向き合えるでしょうか。私たちの何人が「私は、神様の計画に中心に位置する資格のある人間で、それにふさわしい生き方も実現出来ている」と言えるでしょうか。むしろ、その事実を聞いて恐ろしくなり、自分が到底相応しくないと感じても、それでも尚、私たちは神様の計画の中心に置かれており、復活に預かれるのです。何故なら、それほどまでに私たちが、三位一体の神様から心より大切に愛されているからです。このような神様の愛に対して、私たちはどのように報いることが出来るでしょうか。聖書は、それに報いたいと願うならば、それぞれ自分の罪を認め、回心して、キリストの復活を信じるように私たちに勧めています。だから、私たちを何より尊く扱って下さる神様を信じて、それに相応しい応答をしていこうではありませんか。
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