1.時代背景、舞台、文脈背景
復活が確かに存在するということを様々な観点から立証した後、パウロは「死者の復活などない」と言っている人々に対しての反論を口にし始める。今日の箇所の部分は、死者の復活があることを知ってもらおうと説明をしている訳でも、それを信じて貰おうと言葉を尽くしているのでもなく、「寝ぼけていないで目を覚ませ」という趣旨の内容の言葉を痛烈な皮肉と共に浴びせかけて、パウロが自分で言っている通り、文字通り「恥じ入らせようとしている」部分なのである。
その為にパウロは様々な事例を挙げてコリント教会の人々に説明しているが、時事的でローカルな要素が大きい話題のためか、資料が不足している現代においては、29〜34節で扱われている話題の意味するところが、今一つはっきりしていない。予測や推論をたてることはできるし、実際にたてられてきたのであるが、情報が不明瞭な憶測でいろいろなことを判断しようとするのは危険な試みであろう。
とはいえ、たとえ例示の内容が不明確であったとしても、それを通してパウロが言わんとしているところそのものは明確である。だから仔細は判らずとも、その言わんとしているところさえ判るのならば、聖書を学ぶ立場の私たちにとっては十分であろう。要するにパウロは、「死者の復活が無ければ、私たちの行っていることは全て無駄であり、刹那的に生きている人々が人類の中で一番賢い人々ということになる。そんなことなどあってたまるか」と言い切っており、続けて「決して騙されてはならない。刹那的に生きることが大正解なのだというまやかしに騙されるな。いつまで酔っぱらっているのか。目を覚まして正気に戻り、我に返って身を正せ」と呼びかけているのである。
私たちは福音の約束によって、永遠の時間への保証と復活の希望を確信して生きているが故に、いつも惑わされず、騙されず、正しくゆく自分の道を見定めて生きていることが出来るのである。そして復活の希望と永遠の時間への保証があるからこそ、私たちは常に神だけを見据えて、濁流のようなこの世の煩雑な価値観に左右されず、二本の足で確かに歩み続けて行くことが出来るのである。
〇29節
非常に難解とされている箇所であり、教会史の中でも早い時期から議論されている。多くの神学者が、これは死者の為の代理洗礼について語っており、かつパウロはこれに賛成せずに語っているという論調を一般的に用いてきた。
死者の為の代理洗礼とは、読んで字のごとく、「救われずに死んでしまった人の為に、生きている人間が代理で洗礼を受ける」ということであるが、聖書の中にはそのような教理は一切書かれておらず、2000年に及ぶ教会史の中でも、これを行ったのは二世紀ごろにマルキオン派などのほんの一部の異端一派が行った例が数例があるのみで、正統なキリスト教内でそのような習慣が見出されたことはなかった。あくまで、洗礼は本人が生きている間に受けるものであって、誰かが救われずに死んだ人間の代理になることなどは決して出来ないのである。
問題は、この「死者(ギ:ネクロン)」が誰を、何を指しているかということである。
文脈的に最も受け入れられる考え方は、この死者をキリストに当てはめることである。
この論説は「復活などないと言っている人々の意見が正しい場合、このようなおかしなことになる」という反駁の内容であるため、上記のキリストに当てはめる可能性は決して小さくはないだろう。そして、既に同章の13節でも「死者の復活が無いならキリストもよみがえらなかった」とパウロが言っているだから、「復活が無いというのなら、十字架からよみがえらなかった死人(イエス)の為に、人々が一生懸命意味のないバプテスマを受けていることになるではないか」と言っていると考えるのは不自然なことではないだろう。とはいえ、その説を取る場合、ネクロンが、属格、男性、複数で書かれているという問題も生じる。何故、複数形なのだろうか。
別案としては、「既に復活を信じて眠りについた人々と再会する為にバプテスマを受ける人々」というとらえ方も出来るのではないかと提案できる。しかし、実際のところ、当時のコリント教会の中で実際に行われていた何らかの慣習について確認する資料が出なければ、これについては「不明」であるとしか言いようはない。この例示は至ってローカルかつ時事的なものである為、資料が揃わない現代ではその真意を見定めることは不可能であろう。「わからない」としておくのがよさそうである。
ただ、「死人の為の代理洗礼」などというものは、パウロが最も嫌いそうなことであるし、このような大それたことが本当にコリント教会の中で行われており、かつ推奨されていたのなら、既にどこかの章でこの習慣について痛烈に批判されていただろうことは想像に難くない為、「死人の為の代理洗礼が行われていた」と断定するのだけは無理があると思われる。
〇30〜32節
エペソで獣と戦ったとパウロが言っている件についてであるが、実際にパウロがコロッセオで獣と戦わせられたという考えは否定される。
何故なら、コロッセオで獣と戦わせられた人間はローマ市民権を失うという規定が、当時のローマ帝国にはあったからである。(ユスティアヌス法28:1:8:4「剣か野獣や鉱山に定罪される者は市民権をうしなう」)
パウロは、使徒行伝が終わるまでの間は少なくとも市民権を失っておらず、エペソ伝道を終えた後も、エルサレムでローマ市民権を主張している為、実際に野獣と戦ったと考えると矛盾が生じる。(使徒22章25-28節)
また、実際そんな目にあったならば普通は助からないであろうし、奇跡などが起こって不思議と助け出されたようなエピソードがあったならば、ルカがそれを使徒の働きに記さなかったわけはないので、やはり重ねてこれについては否定されるだろう。
しかし、「獣と戦った(ギ:エセリオマケーサ)」は、アオリスト、直接法、能動相で書かれていて、「戦っていたとしたら」という仮定で書かれていない為、パウロがなんらかの「獣」と呼称するに値する存在と戦ったことは事実なのであろう。獣と呼ばれるにふさわしい、理知を弁えない迫害者、もしくは反対者と出会ったのかもしれない。これもまた、非常にローカルな話題であるので実際のところはわからない。
「人間の考えによって(ギ:カタ・アンスローポン)」の部分についても、「考え」と訳していいのかは一考の余地がある。
直訳すれば「人間的(アンスローポン)によって(カタ)」となる。
「もし、私が人間的な損得勘定によってエペソに於いて獣と戦ったのだとして、一体私に何か利益はあっただろうか。損することしかなかったのではないだろうか。死者の復活があるという前提においてのみ、私が獣と戦ったことについての理由付けに正統性がでるではないだろうか」という意味合いの言葉だと考えるのが妥当ではないかと考えられる。
〇32-34節
「悪い交際は良い習慣を損なう(ギ:フェセイロウシン・エッセ・ケレスタ・ホミリアイ・カカイ)」は、「朱に交われば赤くなる」という日本の慣用句と似たような意味があり、古来から用いられているギリシャの有名な慣用句であったようである。
劇作などにも使用されていたようだが、一般的に用いられていたと考えたほうがよく、少なくともギリシャ人に言えば誰でもわかる言葉であったのは間違いなかったようである。(日本人に「朱に交われば赤くなると言うだろう?」といえば大体通じるのと同じこと)
「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」という言葉についても、ギリシャ以前から既に存在していた有名な慣用句のようで、幻の谷への裁きの宣告の際に、異邦人たちが神の御言葉を無視して尊大に語り合っている愚かな言葉として、イザヤ22章13節で用いられている。
「神について無知な人々が居る」という言葉は、パウロが自分で言っている通り痛烈な皮肉である。「キリストを信じて洗礼までも受けておきながら、神に死者を復活させるだけの力があることすらも知らない愚か者たちが、どうやらコリント教会には大勢居るらしい」と、パウロは言っているのである。
「目覚める(ギ:エケーファテ)」は、正気に戻る、冷静になるという意味合いのある単語であり、酒で寄っていた人間が素面に戻るときに良く用いられる単語である。「復活など無いと言って人々を煽り、刹那的に生きようと誘いかける人間の戯言にいつまでも酔っていてはいけない。目を覚ましなさい」と、パウロは人々に対して訴えかけているのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇正気に戻れ
29a そうでなかったら、死者の為にバプテスマを受ける人たちは、何をしようとしているのでしょうか。
29b 死者が決してよみがえられないのなら、その人たちは、なぜ死者のためにバプテスマを受けるのですか。
30 (死者が決してよみがえられないのなら、)なぜ私たちも、絶えず危険にさらされているのでしょうか。
31a 兄弟たち、私たちの主キリスト・イエスにあって私が抱いているあなたがたの誇りかけて言います。
31b 私は日々死んでいるのです。
32a もし、私が人間の考えからエペソで獣と戦ったのなら、何の得があったでしょう。
32b (そもそも)「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ、明日は死ぬのだから」ということになりませんか?
32c どういうときに?:もし、死者がよみがえられないとするのならばです。
33a (刹那主義者や哲学者などの詭弁に)惑わされてはいけません。
33b 「悪い交際は良い習慣を損なう」のです。
34a 目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。
34b 神について(神には、死者を復活させるような力などなかろうと言っている)無知な人たちがいます。
34c 私はあなたがたを恥じ入らせるために言っているのです。
着情報3.メッセージ
『永遠への希望』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章29〜34節
中心聖句:『目を覚まして正しい生活を送り、罪を犯さないようにしなさい。神について無知な人たちがいます。』(Tコリント人への手紙15章34節) 2024年12月29(日) 年末感謝礼拝説教要旨
年末になりました。お正月の準備に忙しい方も多いと思います。そのような年の締めくくりに至ってすら、毎日様々な情報が次から次に聞こえてくるので、気ぜわしくてなりません。ジェンダー問題の逆転や、株の情報や暗号資産の乱高下の報せ、この年の瀬で外交に於いても不穏な話が聞こえてきますし、ミニマリストが情報発信する一方で、物価の高騰によって早めの物資確保が呼びかけられたりしてもいます。「朱に交われば赤くなる」「触らぬ神にたたりなし」という言葉が通用する時代でもなくなりました。私たちは常に、「新しい情報」に晒されて、自分がどう生きるべきかについてすら揺るがされる毎日です。こんな世の中で、自分の人生の指針を揺ぎ無く定めるためには、一体どうすれば良いのでしょうか。
今日の箇所でパウロは、様々な情報に翻弄されるコリント教会の信徒たちに、決してぶれることなく、確かに信じなければならないものが存在することを教えます。それこそが、永遠に対しての希望です。私たちは今、この世界に確かに生きているのですが、死んだ後のことについては、実際のところ何もわかっていません。死ねば全てが無に帰して後には何も残らないという人もいます。だから「明日にはどうせ死ぬのだから、今日好き放題しようじゃないか」とそう言って好き放題する人々が当時も多く、コリント教会の多くの人々もその言葉に惑わされて正気を失っている有様でした。確かに、魂など存在せず死ねば消えてなくなるだけならば、人を傷つけてでも人生を楽しんだ人間が一番賢いということになるのでしょう。しかし、パウロは今日の箇所で「そんなことは絶対にありえない」と完全に言い切っているのです。
実際に、世の中の多くの人が好き勝手に生きることが正解であると考えながらも、そのように生きることが出来ません。それは心のどこかで本能的に、本当はそれが正解ではないと予感しているからではないでしょうか。聖書はなんといっているでしょう。この天地を造られた父なる神様によって、私たちの行いは正しく裁かれ、清算されると宣言しています。だからその予感は、実際に正しいのです。私たちの死後に全ての物事が正しく清算されるので、自暴自棄な生き方は決して正解にはなりえません。そして他でもない、その裁きを行われる方が、御子の犠牲の血によって私たちの罪の赦しと永遠への時間を約束して下さっているので、私たちは「永遠の時間」を前提に自身の人生を見定めていくことが出来るのです。私たちは、この福音の約束によって永遠に生きるだけでなく、新しい天地をイエス様と共に相続し、管理していく使命を与えられるのだと言うことをあらかじめ聞かされています。それ故、私たちは来るべきその時に備えて、自らの能力を養うために、今生の歩みの中でひたすらに訓練を積み重ね続けているのです。老人になっても、私たちから不思議と学ぶ意欲が失われないのも、自堕落に生きることに焦燥感を覚えるのも、全ては私たちの永遠の時間に対する予感からくるのです。
パウロは、「死ねば終わり」と嘯く人々に対して、「そんなことなどあるものか」と反論し、惑わされる人々に「正気に戻れ」と呼びかけています。天の父なる神様は、文字通りこの天地を創造され、キリストを復活させ、今日も私たちに聖霊を送って、心の内のどうにもならない部分を聖めて下さっています。そのような方に、死者を復活させ、罪を裁く程度のことが出来ないと、私たちは本当に信じるのでしょうか。神様は間違いなく、私たちを復活させて永遠の時間を与えるだけの力を持たれています。この永遠への希望によって、私たちはどのような価値観が流れ込んできても惑わされず、揺るぎない人生を歩むことが出来るのです。今年も私たちは、様々な神様の御業を目撃し、体験しました。今、私たちの心は揺らいでいるでしょうか。
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