1.時代背景、舞台、文脈背景
復活について、あれこれ論証してきたパウロであるが、ここで最後に「死人がどのように復活するのか想像することもできない」という、感情論的な反対についても予期し、完全に反対者が何も言えない状況を作りだそうとしている。
というのも、実際に復活がありえるのかどうかという話を理詰めで全て論証しても尚、古代ギリシャ文化の人々にとって「死人の復活」は受け入れ難い馬鹿馬鹿しい話題だったからである。
当時のギリシャ社会では、二元論と呼ばれる考え方が一般的であり、肉体は汚れており、魂は清らかなもので、全ての罪は肉体によってもたらされ、清い魂を汚すのだと、ギリシャ人たちは考えていたという背景がある。グノーシス思想とも呼ばれるこのような考え方は、教会の中に事あるごとに入り込んできて、復活を信じる人々を脅かし、異端の道へ引きずり込もうとした。
汚い肉体からは、死によって解放され、開放された自分の清い魂が、その後に神や天の星々になる。それがギリシャ人にとっての最大のロマンだったのである。だから、死んでも肉体に閉じ込められ、そしてその肉体が復活して永遠に生きるなどという話は、ギリシャ人たちにとって到底承服できない話題だった。
故に、それらのギリシャ文化的な感情論についても、当然パウロは対応しなければならなかった。彼らが勘違いしている「悪い肉体に永遠に閉じ込められてしまう」という概念を払拭する為に、私たちの新しい復活の身体が如何に素晴らしい者であるか、また、どのように作り替えられ、どのような輝かしいものへ昇華されるのかについて、パウロは今日の箇所でしっかりと論証し、語ったのである。
余談であるが、古代ギリシャ人たちは、魂について完全に非物質的な存在ではなく、ある程度、物質的な存在であると考えていた。
ギリシャ神話の神々が人間と子供を成し得るような話からもその概念について伺うことが出来るのであるが、それ故に、古代ギリシャの人々にとって、私たち現代の日本人が考えているほど、肉体は「魂の器」として必要不可欠ではなかったのである。魂は器が無くても単独で存在できるので、肉体は器足り得ず、ただの籾殻、余分な脂肪、良いものを閉じ込めるいがぐり、つまり余計な檻のようなものに過ぎないという考えがあった。だから、コリント教会の人々が、「墓の中からそんなしょうもないものを引き続き引っ提げて自分が蘇ってくる様など想像できないし、想像したくもない」と考えるのは無理からぬことだったのである。
しかし、神には何でも出来ないことは無いのであり、復活のキリストが私たちに与える栄光の身体は確かに存在するし、古代ギリシャ人が考えるどのような夢や理想、ロマンよりも輝かしい、素晴らしいものであった。これを彼らは理解すべきであったし、理解した上で希望を抱かなければならなかったのである。
どのような身体でくるのかという問いかけについては、復活のキリストに似た身体であるとしか言うことが出来ないが、少なくとも復活のキリストは、私たちに初穂としての身体の「片鱗」を見せる為に、地上に40日間とどまってその復活の身体を見せて下さった。それ故、私たちは新しい身体の僅かな手がかりを、聖書の記述によって見出すことが出来る。
この時に注意しなければならないことは、見せられたものが「新しい身体」の現物に違いないにしても、私たちが直視できるように、敢えて昇天して神の右の座に就く前の過渡期の姿で見せられたものであるということである。
完成形になると、パウロが一瞬で目がつぶれてしまう程に輝くので、人間の栄光の無い肉の身体で直視できる程度には、キリストは新しい身体の「輝度」を下げて見せる必要があった。
本来の復活のキリストの完成形は、使徒行伝でパウロの前に現れ、サウロの周りを一斉に照らした輝かしい栄光の光を纏った姿であったことは覚えておく必要がある(使徒9章3節)。
つまり、私たちの復活の身体は復活した40日のキリストではなく、パウロの前に現れたこの光り輝く栄光の姿にこそ似せられるのである。この約束は、私たちにより大きな希望となって活力を与えてくれることであろう。福音の約束とは、永遠のいのちのついでのように語られる身体の約束一つとっても、これほど素晴らしいのである。
〇35節
「しかし(ギ:アッラ)」は、強意の反意語である。「しかし、ある人は言うだろう」という意味のこの言葉は、反論した人の言葉をそのまま引用するか、反論する人の言葉を想定して用いるかのどちらかで使われる用法である。
死者がどのようにしてよみがえるのか、は、復活の過程についての具体的な質問であり、どのような体で来るのかは、復活した時の姿についての質問である。
これらの質問は、当然ながら真面目な疑問によって質問されたものではなく、死者が復活するはずなどないと言っている人々が、嘲り半分ではやし立てた言葉だと思われる。
死んだ生物は腐敗して土の中で腐り果てる。それがどのようにしたところで戻ってなど来る訳がないという考え方は、死が現代よりも余程身近であった当時の人々には当たり前の感覚であったのかもしれない。だから腐った肉塊からどんな身体が蘇るというのかと、復活の反対論者は質問したのであろう。
死について詳しければ詳しいほどに、私たちは復活を信じることが出来なくなるのである。それについては、死についての科学的な研究が進んだ現代に於いては、尚の事であろう。富んだ賢者ほど福音を信じるのは難しいのである。
〇36節
「愚かな(ギ:アフォルオン)」は、馬鹿者とも訳すことが出来る言葉であり、非常に厳しい、あるいは口汚い罵りの言葉である。さらに、「人だ(ギ:スー)」は、人称代名詞を用いてあなたという言葉を特に強調しており、「お前が馬鹿者だ」と、復活について見当はずれの質問をして嘲ろうとする人々に強い言葉を浴びせている。
大体の翻訳は和らげて翻訳を行うが、言語においては「この馬鹿者が!」と絶叫するほどに厳しい言葉遣いであることを忘れてはならない。そのぐらいに、この感情的な反論は、取り合うだけでも馬鹿馬鹿しい、一蹴されて然るべき、子供の屁理屈のような議論なのである。
「あなたが蒔くもの(ギ:スペイレイス)」は、純粋に種まきの意味であり、反対をしている当事者本人ですら、日常的に行っている生活の為の農耕の作業である。反対している人が、自分が普段していることについて良く思い返す時、復活のしくみについての真理はおのずと明らかにされるのである。
私たちは、種まく人が勝手に種を蒔くように、各々、勝手な場所で死を遂げるのであるが、神はその勝手に撒かれた死の身体を素晴らしい姿に萌え出でさせ、昇華させ、勝手な場所で死んだ私たちを素晴らしい姿に復活させるだけの力と意思があるのである。
これについてキリストもまた、復活を嘲るサドカイ人に「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか?」と尋ねている(マルコ12章24節)。神にそのような力が無いと考えることは、神の力を知るものほど愚かに見えることであろう。
そのような収穫を私たちが手に入れる方法は、神の手によって実らされるのを待つ以外には何もない。私たちが、種を蒔いて育てる以外に収穫物を手に入れる方法が無いのと同じである。神によって時が来て、私たちが復活の現場を目撃する以外に、私たちは復活の身体を見る方法が何も無いのである。
「ただの種粒(ギ:グムノン・コッコン)」は、裸の種粒であり、それ自体には何の特徴もないことを示している。
これは有名な、ユダヤ教における「裸で死んだ者は復活した時に服を着ているのか」という、クレオパトラの問いかけに著名なラビ(導師)が返答した物語を扱う「裸の種」という逸話からくる慣用句である。ユダヤ教では、この問いかけに対し「麦は裸で蒔かれて死にますが、そこから生えた麦は皆、黄金の衣(即ちもみがら)を纏っています」と、伝統的に返答する。
撒くときには何の変哲もない裸の種粒が、その種粒からは想像も出来ないような美しい衣を纏った植物へと成長を遂げる。初見の種の姿から、そのような成長後の植物を類推することが出来る者など、この世にはいないのであるから、死んだ私たちの身体が、どんな美しい衣を纏った想像しえない美しい姿に昇華されるのかということについて、決して想像に難くないにしても、現時点で言い当てられるような人間はどこにもいないのである。
〇38〜41節
「しかし、神は肉体を与え(ギ:デ・テオス・ディドゥシン・アウトゥ・ソーマ)」の部分に、付加する形で、「それぞれの種にそれぞれの身体を、後に」という表現が用いられている。
また、「御心のままに(ギ:エセレーセン)」という表現も添えられているため、「神が能動的に植物にそれぞれの身体を与えるような御業を、自分の意志によって行っている」ことが確かに示されるのである。
これが能動的、かつ習慣的である証拠は、「与え(ギ:ディドゥシン)」が、直接法、能動相、現在で書かれているところで確認できる。現在時制で書かれているのは、習慣的な行為を意味する用法だからである。
さらに、話は穀物から、「肉(ギ:サルコース)」の方へ移行する。「人の(ギ:メン・アンスローポン)」や、「獣の肉(ギ:サルコース・クテノーン)」(※厳密には購入した肉という意味で、これは重荷を背負うラバや運搬に用いる家畜の肉の意)と種類を提示し、植物の種だけでなく、動物の肉についても、それぞれの生き物に合わせて違う肉質の身体が用意されているとパウロは話を続けるのである。
生き物ごとに筋肉の特質も違えば、食べた時の味すらも違う。同種分類の動物でも(例えば鶏の中ですら種類によって堅さも味もうまみも違う)その特質には差があるのだから、鳥や魚などの分類が変われば更にその差異が出る。似たような姿の生き物があっても、同じ肉を持つ動物ものは一つもないのである。
更に話題は身体の物理的な特質だけでなく、その身体に付与された栄光の度合いにも進んでいく。
「天上の(ギ:エポウラニア)」は、天使とかそういったものでなく、単純に空の上に浮かんでいる星々を指しているようである。当時の人は星々は生き物であると考えていたので(英雄は星や星座になったと語られていたように)、パウロもそれに合わせてこのような表現を行ったのだと考えられる。
また、「地上のからだ(ギ:ソウマータ・エピゲイア)」は、地上の鉱物というよりは、地上に生きている生き物全体を指して言っているのだと考えられる。
41節では、「輝き(ギ:ドクサー)」、即ち栄光という表現が用いられる。太陽にしろ、月にしろ、星にしろ、輝き方は全く違うという例を挙げて、復活の身体は、その肉体だけでなく、身体が纏う輝きの具合すらも人によって千差万別であるということを、パウロは言わんとしている。
一人びとりが、神様の前での働きに応じて評価され、その功績に相応しい輝き、即ち栄光を頂くのである。同じ新しい身体など何一つないように、同じ栄光の輝きすらも、同じようなものは何一つないのである。
〇42〜44節
「死者(ギ:トン・ネクロン)」は、定冠詞つきであり、死んだ人類全体を表している。
朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらせられ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらせられ、という以降の部分については主語が無いが、これが「死者」に掛かっていることは明らかであろう。
「朽ちる(ギ:フォソーラ)」は、減衰する、腐敗するという意味であり、「朽ちない(ギ:アフォサルシア)」は、腐敗しないという意味である。肉体は腐って無くなるのだ、と主張している反対者たちには、特に朽ちないからだが存在することについて指示されなければならなかった。新しい肉体は、腐って無くなってしまうものではなく、決して腐りはしない不滅のものなのである。
この後の、「卑しい(ギ:アティミア)」、「弱い(ギ:アスセネイア)」は、「血肉の身体(ギ:ソーマ・プスキコン)」に対してギリシャ文化の人々が抱いているマイナスのイメージそのものである。二元論に基づいて物を考える人々が理解しやすいように、パウロがこの後のことを発言していることは明らかだろう。
この「血肉の身体(ギ:ソーマ・プルキスコン)」は、これまで取り扱われた「肉(ギ:サルコス)」という意味を指しているのではなく、「自然な生命(ギ:プスケー)」から派生した言葉で、生まれながらの身体、生まれたままのナチュラルな身体という意味を指している。
この生まれたままの、やがて死に至る自然な血肉の身体こそが、多くのギリシャ人が死によって解放され、手に入ると勘違いしている「御霊に属するからだ(ギ:ソーマ・プニューマティコン)」に、神に造り変えられるのである。これこそが、わたしたちは希望を抱いている復活なのである。
ところで、この「御霊に属する」とは、滅びないように霊(即ち聖霊)によって完全に統制されている身体という意味である。いわゆる、私たちの知らない道の「霊的な物質」によって構成されていという意味ではないことので注意が必要である。
御霊に属するとはどういう事であろうか。現状、御霊が宿って支配している私たちの土の身体は、キリストによって御霊を送られ、形式上は聖なる宮とはされているのであるが、実際御霊を宿しうるに足る器として昨日しているかと言われれば、決して聖霊の宮足り得てはいない。
聖霊を宿す宮としては、不完全な土の身体は、完全に役者不足である。御霊の統制は、肉の身体では扱い切ることができない。だからこそ、聖霊が私たちに与える聖めの恵みも、決して土の身体の内では完成しない。
しかし、新しい復活の身体はそうではない。御霊の力がいかんなく発揮され、聖めも完全にされ、栄化を完成に至らしめるので、私たちはキリスト者の完全に至ることができるのである。これこそが、聖霊が最大限に力を振るうだけのスペックがある「御霊に属する霊の身体」なのである。
〇45節
ここで、パウロは一旦聖書に立ち返って、御言葉によって霊の身体が存在するという結論を導こうとする。
パウロはここで創世記2章7節を引用しようとしているが、聖書引用の定型句である「カトホス・ゲグラプタイ(〜と書かれているように)」ではなく、「ヒュートース・カイ・ゲグラプタイ(このようにもまた書かれているが)」という形式で御言葉を口にしている。
これは正確で正確な引用ではなく、大まかに「そのような感じのことも書いてあったはずだが」と引用する時に用いる。
厳密には「それで人は生きるものとなった」であるが、人の部分を、「最初の人アダム(プロトス・アンスローポス・アダム)」と注釈を加えて引用している為、このような言葉遣いになっているのであろう。
旧約聖書に明るくない異邦人クリスチャンに対しては、当然必要な配慮であると考えられる。
最後のアダムとは当然キリストのことであり、キリストは既に初穂として復活し、御霊の身体となられているのである。
〇46節
45節の後、強い反語「しかし(ギ:アッル)」でパウロは文章を始めている。ここで何故反語を使うのかについては類推するしかないが、おそらくは、キリストが命をあたえる御霊となったとはいえ、最初にアダムがあってキリストが後から着たように、その御霊によって命が与えられるのは当分先のことになる、という趣旨のことをいわんとしているのだろう。
御霊の身体は血肉の身体が死んで、キリストが再臨した後に与えられるのであり、交換されるわけでも、肉体を捨てて解放される訳でもないということは、パウロの主張としてコリント教会の人々が理解し、確認しなければならないことであった。勿論、現代の私たちもしっかりと聞いておくべきことであろう。
〇47〜48節
ここでは、アダムの起源と、キリストの起源を対比し、肉の身体を霊の身体に至らせしめる拠り所がどこにあるのかを象徴している。
朽ちる土から生まれたアダムは、以降の人間たちを朽ちるものとしかすることが出来なかったが、朽ちない天から生まれた復活のキリストは、以降の人間たちを朽ちない者へと生まれ変わらせる力があるのである。
天から出た、という表現を見てアダムは人間だが、やはりキリストは人間でなかったと考える異端が居るが、そうではない。キリストが「出た」のは、十字架の上で死んで贖いを完成し復活して「父なる神によって新しい身体を着せられた」時であって、第二のアダムとなられたのもその時である。公生涯の最中のキリストの身体は、最初のアダムに連なる地に属する者として活動されていた。この点については、決して勘違いしないようにしなければならない。
キリストも、マリアを通し、朽ちる肉体の身体を最初のアダムから受け取って生まれられた。アダムと同じ肉の身体で生涯を歩み、十字架の贖いを成し遂げ、その上で苦しみを受け、そして死なれたのである。その後に復活し、朽ちない身体と永遠の命を獲得し、神によって新しい身体を着せられ、この時初めて「天から出た」。ここでキリストは、アダムに連なるものから、天から出たキリストとなり、新しい「天からでた最初の人(アダム)」となられたのである。
生まれたままの姿で悔い改めず、新生もせずにアダムの眷属であり続ける者は、結局のところ血肉によって滅びるべきものでありつづける。アダムと同じく、塵から生まれたものは塵に帰るのであるが、信じて回心し、キリストの十字架を信じてその眷属となるものは、キリストによって天から出た新しい身体を着せられ、キリスト同じく天から出たものとして数えられ、アダムに連なる者ではなく、キリストに属する者と呼ばれるようになるのです。
復活のキリストは決して、受肉前から維持していた「子なる神」としての全能によって、人々に永遠の命と新しい体を与える存在となられたのではない。あくまで人間として生涯を完遂され、十字架の贖いを成就された上に受けられた栄光のみによって神の右の座につくものとされ、その栄光によって、私たち信じるものもまた、天から出たものとしてくださるようになったのである。キリストはどこまでも、「人間として受けた」栄光と権威の範囲で、私たち一人びとりに「天から出たキリストに属させる」という素晴らしい栄誉を与えて下さったのである(ヨハネ5章21節,26節)。
〇49節
「持っていた(ギ:フェロー)」、「持つことになる(ギ:エフォウラニオウ)」は、担う、運ぶ、身に着けるといった意味がある言葉であり、身体は私たちの身にまとう衣服であると例えられている。また、継続的な意味も含まれており、地上の肉の肉体を常に身にまとっていたように、今度は天上の身体を常に身にまとうようになると言っている。私たちは、古い身体を捨てて新しい身体に交換されるのではなく、土の身体の上に、新しい身体を着せられて、新生する。それは、例え愚かな土の身体であっても、その土の身体によって歩んだ至らない道のりであったとしても、私たちの犯した過ち以外の全てを決して不要とされない、無かったことにはされない父なる神の愛の形の表れなのである。
私たちはそのように新しく作り替えられ、キリストを通して与えられた新しいからだによって栄化され、完全な存在となり、永遠の御国を生きるようになるのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇叱責
35a しかし、このように言う人が居ることでしょう。
35b 何を?:「死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか」
36a この馬鹿者め!
〇種に例えて
36b あなたが蒔くものは、死ななければ生かされないでしょう。
37a また、あなたが蒔くものは、いきなり完成品なのではなく、最初はただの種粒でしょう。
37b それが麦であっても、他の穀物であっても同じはずです。
38a しかし、神は、みこころのままにそれに身体を与えられます。
38b それぞれの種に、それ自身のからだをお与えになるのです。
〇動物とてそれは同じ
39a (それは動物に至ってもそうです。)どんな肉もおなじではなく、それぞれ違います。
39b 人間、獣、鳥、魚と、それぞれの肉は違うでしょう?
〇与えられる栄光も違います
40a また、(それぞれの身体に与えられる輝きもまた違います。)天上と地上の身体があります。
40b 天上と地上の身体で輝きもことなります。
41a (天上の輝きの中ですら差異があります)太陽、月、星、それぞれ輝きがちがいます。
41b (それどころか)星と星の間でも輝きが違います。
〇死者の復活とはつまり
42a (つまるところ)死者の復活もこれと同じです。
42b 朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされます。
43a 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされます。
43b 弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされます。
44a 血肉の身体で蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされます。
44b 血肉の身体があるのですから、御霊の身体もあるのです。
〇血肉の身体と御霊に属する身体について
45a (御霊の身体があるということについては、大まかにではありますが)こう書かれています。
45b 何が?:「最初の人アダムは生きるものとなった」
45c しかし、最後のアダム(すなわちキリスト)は、いのちを与える御霊となりました。
46a 最初にあったのは、御霊(即ちキリスト)のものではなく血肉(即ちアダム)のものです。
46b (だから)御霊のもの(がくるの)は(アダムの後にキリストが来たように)後なのです。
〇あおの所属も変えられ、キリストに似た者とされます
47a 第一の人は地から出て、土で作られた人です。
47b (しかし、)第二の人は(新しい身体を着せられた)天から出た方です。
48a 土で作られた(生まれたままの姿の)者たちはみな、この土で作られた人(すなわちアダム)に似ています。
48b (しかし、キリストを信じて復活に預かり)天に属する者たちはみな、この天に属する方(すなわりキリスト)に似ています。
49a (将来、)私たちは、土で作られた人のかたちを持っていたように、天に属する方の形をも持つことになるのです。
着情報3.メッセージ
『永遠の開花』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章35〜49節
中心聖句:『しかし神は、みこころのままに、それにからだを与え、それぞれの種にそれ自身のからだをお与えになります。』(Tコリント人への手紙15章38節) 2025年1月12(日) 成人祝福礼拝説教要旨
今週は、成人式です。小さな身体で生まれた赤ちゃんが、すくすく成長して大人になっていく様を見るのは、いつの時代でも感慨深いものがあります。人間に限らず、この地上の殆どの生物は、多くの変身を遂げて大人に至ります。最初の姿からでは、大人になった時の本来の姿を知る由もないでしょう。成人された方も同じく、この時に至って初めて、自分の本当の姿を知ることが出来たのではないでしょうか。ところで、私たちは更にもう一度大きな変身を遂げると聖書が言っているのをご存じでしょうか。それこそが、復活による永遠の開花なのです。
今日読んだ聖書の箇所では、復活の教えを聞いて「死んで腐って骨になった身体で、どうやって永遠に生き続けられるだろうか」と嘲る人々に、パウロが強い言葉で反論しています。当時のローマ社会は、現代より死が身近で、遺体も火葬せず石室に葬るのが一般的でしたので、誰もが「屍体は腐り、最後は骨だけになる」ということを知っていました。だから、「復活する」と言われても、ゾンビのように腐った屍体が石室から出てくると考える人が多かったようです。しかしパウロは、そのような人々に対し「いつも撒いている種粒を見れば、復活の理屈もわかるはずだ」と教えました。小麦は、最初はみすぼらしい小さな種粒でも、地面に蒔けば芽が出て成長し、最後は黄金の美しい穂となって収穫されることは、コリント教会にいる誰もが当然のように知っていたことです。だから、これ以上は何も起こらないと思われる枯れた骨からでも、神様は想像もしえない全く新しい身体を造り上げられるとパウロは言ったのです。
私たちに与えられる復活の姿も千差万別です。同じ種類の種粒が同じように撒かれても、その成長の仕方が違うように、時が来れば神様は、私たちにそれぞれの個性に応じた新しい身体を与え、その功績に従って輝かしい栄光を纏わせて下さると約束してくださっているのです。
また、変えられるのは肉体そのものだけではありません。私たちは新しい身体の属する先も、土から出たアダムから、天から出たキリストへ改められます。何故なら、イエス様がまず、十字架の贖いを完成したことによって死者の中から復活し、土の身体の上に、天から出た新しい身体を、他でもない天の父なる神様によって着せられたからです。土の身体の上に天から出た身体を纏われたので、イエス様は土ではなく、天から出たものとされました。同じく、十字架を信じて復活の恵みに預かる私たちもまた、同じ天から出た身体を、土の身体の上にイエス様に着せて頂けるので、その所属を「土のアダム」から「天のキリスト」に変えられるのです。
最後に、私たちは復活の身体によって完全な聖めを受けて、内面までも完成されます。これが栄化です。「御霊に属する身体」とは、聖霊様によって完全に統制された身体という意味です。私たちは、洗礼を受けた後に至っても、少なからず自身の霊の邪な部分や肉体の欲求に振り回されて罪を犯すのですが、それは私たちの土の身体が不完全で、聖霊様による統制がまだ完全に行き届かない為です。しかし、復活によって御霊に属する身体に変えられた時、私たちの内に宿る聖霊様は、いかんなく全ての力を行使できるようになります。それ故、私たちへの聖めもまた完全なものとなって、私たちは最早罪を犯さない完全な内面を与えられるのです。
このような約束が与えられているのは、ひとえに天の父なる神様が私たちを一方的に愛し、永遠に共に歩みたいと望んでくださっているからです。もし、自分の罪を認め、悔い改めて、この恵みと招きに応じるならば、私たちは今日からでも、すぐにこの復活による永遠の開花の約束を受けることができます。私たちは、この招きにどのように応答できるでしょうか。
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