1.時代背景、舞台、文脈背景
15章も終わりになり、復活についての議論もいよいよ結論に至る。
最後にパウロは、既に啓示によって開示されている奥義(おくぎ)をコリント教会の信徒たちに開示し、堅く立ち、決して動かされない信仰を得るようにと促し、呼びかけている。
ここでパウロが開示する奥義は、終わりの日に私たちの身体が置き換わる時の出来事についてである。私たちは、キリストの再臨を発端とする、終わりの日の出来事の総仕上げに、終わりをつげるラッパが吹き鳴らされて、新しい身体へと一瞬で作り替えられるのである。
このところで、パウロはいくつかの重要な事柄を私たちに告げている。
一つ目は、私たちの身体が、朽ちる血肉の肉体から、朽ちないものへと再創造されること。
二つ目は、それが一瞬のうちに、再臨の日の生死に関わらず全ての聖徒に適用されるということ。
三つめは、その時に死の危険性が全て取り除かれ、その役目を終える為、私たちが最早死となんらかかわりのない者とされることである。
私たちは、現在進行形で死に向けて毎日を生きているのであるが、その人生には、神とかかわりなく過ごす人々以上の苦難が待ち受けている。更には、私たちが強く自身の復活について自覚し、またそれに対して確信を抱かない限り、私たちは死に抗うようにして生きてしまうため、死という恐ろしい存在の前に常に恐れおののくこととなってしまう。その結果、その生き方には安定が無くなり、私たちは常に揺れ動く存在となってしまう。自分が死ぬか否かというときに、落ち着いていられるほど、私たちの信仰は強いだろうか。また、自身の死が目前に迫って尚、私たちは神を裏切らずに正しい選択を行うことができるだろうか。
この確信を得る為に、私たちは、奥義の日についての信仰を堅く握らなければならない。即ち、終わりの日に生きていても、死んでいても、私たちの利益は、神の前に決して何も損なわれず、全ての人間が主に在って復活の恵みに確実に預かることができるという確信に立たなければならないのである。その信仰に立つので、私たちの行う全ての労は、神によって間違いなく有益に用いられ、決して無駄にはならないことを私たちは確信することができる。私たちの労は、見たこともない誰かに益を齎すのではなく、復活した私たちが、正に生きてその益と誉れに預かるのである。私たちの目論見通りの方法で、私たちの労が有益になるかどうかは誰にもわからない。しかし、その労を積む姿を見る神が、その労を用いて必ず良いことを成し遂げて下さるのである。
従って、私たちは死んでも益であり、生きることはキリストであると宣言することが出来る。これを強く確信し、自らの悟りとすることができるので、私たちはたとえ生死の境に立ったとしても、平然と目の前の事を見続けることができるようにまで、主の恵みによって信仰が堅くされるのである。
○50節
「わたしはこのことを言っておきます(ギ:トウト・デ・フェミー)」は、確実に起こることを宣言する、断言する際に使われる言葉である。少なくともパウロは、これについて確信をもって言っているし、天の教会もパウロのこの確信を追認している。また、この表現は、既に7章29節でも用いられており、新たな話題を始める際の切り替えの文言として用いられている。翻訳聖書によっては、50節までを49節までと含めて一つの纏まりとし、51節から新しい単元にまとめるものもあるが、7章29節からの慣例を見るに、50節から新段落とするのが正しいだろう。
「血肉(ギ:サルコス・カイ・ハイマ)」は、肉体の特に腐りやすい二つの部分を取り上げて結合させた表現であり、新約聖書に於いては、この二つを並列させて表現する際、必ず私たちの肉体そのものを指す言葉となる。「肉(ギ:サルコス)」については、私たちの罪や、原罪的特質を表すこともあるのだが、それはあくまで「霊(ギ:プニューマ)」と対立して語られるときであって、血肉と並列して表現する場合に於いては、この特性は適用されない。特に、前にパウロが正しくない人間は神の国を相続できないと言った為、余計に肉という言葉に注目し、ここに罪の意味合いが含まれると読みたくなる人々もいるのであろうが、ここででのパウロは、あくまで単純に、死ぬ定めにある現在の肉体では、神の国を相続することは出来ないと言っており、「土(アダム)に属している肉体の形」以上の意味にとってはならないのである。
また、「血肉」と、後述の「朽ちるもの」を、同じものとして認識して良いのかという問題については、同じものとして認識して良いと言える。「血肉は生きている人間」、「朽ちるものは死んでいる人間」とより分けて、生きている人間がキリストの再臨に預かることが出来ないと穿った読みかたを試みようとする人々もいるようであるが、再臨の際に生きているか死んでいるかによって、死んだ人間の方が生きている者より先に栄光に預かると言う僅かな順番差以外に於いては、私たちの利益は全く差が無いことは知っておくべきである(詳しくは次節にて)。
「相続する(ギ:クレロノメッサイ)」は、厳密には相続によって受け取ると言う事柄を意味しており、血肉に対応して掛かれている動詞でありながら、アオリスト、不定、能動相で書かれているため、血と肉がばらばらに扱われているのか、それとも一塊として扱われているのか特定できないのであるが(もし血と肉がそれぞれ単体に呼ばれている場合、死者は骨、生者は血と肉という分類にわけられると考えることが出来てしまう)、続く「できません(ギ:ウー・デュナタイ)」が、三人称単数の動詞で併記されている為、「血肉」がひとまとまりとみなされ、当然骨も含まれる肉体全体を指すメタファーということになっているのが判る。
つまり、この肉体全体をもって、私たちは一人とされているのであり、屍体がどのように焼かれて骨だけになっていようが、身体が欠損していようが、あるいは散骨されて魚の餌になっていようが、また五体満足でその日に血や肉がついたままで生存していようが、血肉の身体は血肉の身体として、なんら変わりはないのだということになる。だから、この「血肉」を指して、「血と肉がくっついたままの生きている人間は、再臨の日に天国に入れない(血と肉が失われて骨だけになっていないため)」と主張する人々の考えは完全否定される。私たちは、この血肉の身体でいる限りは、世の終わりの時に生きて居ようが、死んでいようが、そのままでは神の御国に入ることは出来ない。これは能力的に足りないということではなく、性質上不可能であるという意味である。
〇51節
「聞きなさい(ギ:イドウ)」は、見よ!とか、見て!といった注目を集める言葉であり、聞けというよりは、見るように促す言葉であるが、その意味するところは同じである。これから大切なことがあるので注目するようにと促している。
「奥義(ギ:ミステリオン)」は、謎を指す言葉である。奥義(おくぎ)とは、人間が知りえない神の計画の内、霊的な啓示によって開示されている部分を指す。霊的な洞察力が無い一般の人に対しては隠されているが、霊と信仰の目をもって見る人間には、啓示によって開示される情報が奥義である。この性質は、イエスのたとえばなしと同じであり、見ているけれども見えず、聞いているのに聞こえないという特性を持つ。即ち、啓示によって開示されていない神の秘された計画部分については奥義とは呼ばない。何故なら、それはまだ開示されていないからである。
「皆眠る(ギ:コイメセソーメサ)」は、未来形で、皆眠ることになる、即ち肉体的に死ぬことになるという意味を表している。これに、否定のウーが入ることで、「皆眠ることになるわけではないのだが」という意味になる。ちなみに、パウロは自分がこのどちらの立場になるのかは、どうでもよいと思っているようで、自分がどちらに立つかについては全く言及していない。
「みな変えられます(ギ:アッラゲソーメサ)」は、生きていようが、死んでいようが、血肉の身体から、新しい霊の身体に変えられると言う内容を未来形で示している。前述の通り、パウロはそれがいつ起こるのかは知らなかったので、自分が生きていることもあれば死んでいることもあるのだろうが、結果に変化はないという趣旨でこのことを話している。しかし、パウロが死ななければ生かされない(36節)と言った以上、キリストの再臨時に生きている人間はどうなるのかという揚げ足をとるような疑問を口にする者は現れるだろう。だから先回りして、新しい霊の身体が与えられる際には肉体的な意味での生命活動の有無は大した問題ではないと、パウロは説明しなければならなかった。キリストの再臨までにたとえ死んだとしても、私たちにとっては何の不利益にもならないことは、はっきりさせておく必要がある。
ちなみに、この箇所については、「キリストを信じていない人間も同じように変えられるのか?」という疑問を抱いて悩んだ初期の写学生らによって、多くの異読がなされた背景がある。しかし、パウロはこのところで、信じていない人間については何も触れていない。あくまで「私たち(即ち信じて洗礼を受けた聖徒達)」の変化の話である。教会に属さないその人々がどうなるのかということについては、ここでは触れられていない。
〇52節
「たちまち(ギ:アトモー)」は、これ以上ないぐらいに小さな単位を指し、「一瞬に(ギ:リーペ・オフサルモウ)」は、文字通り目が瞬きをする間に、という意味をさす。つまり、瞬きを一度し終える頃には、全ての変化が終わっているというぐらいに、至極短い時間で、全て再創造が完了すると言うことをパウロは言っている。
「終わりのラッパ(ギ:エスカーテ・サルピッギ)」は、トランペットを指す言葉で、祝祭の際の合図に用いられるものであった。ラッパは終わりの出来事との関連で、イエスの教えにも、旧約聖書にも出てくるものである(イザヤ27:13、エレミヤ6:17、ゼカリヤ9:14、マタイ24:31、その他多数)。重要な出来事が起こる際の告知はラッパによって行われる。ちなみに、「終わりの(ギ:エスカーテ)」は、ラッパの鳴り終わりを指すのではなく、全てのことの一番最後の出来事として鳴らされるラッパという意味である。
このラッパによって私たちは「変えられる」のであり、パウロが語るところの「復活」は、血肉をもった生きた元の肉体への復帰を表すような稚拙な要素は全く含まれていないと言うことが良く判るのである。
〇53〜54a節
これまでのことでわかる通り、私たちの「血肉のからだ」と、終わりのラッパによって変えられる新しい身体には、普通に考えれば何の関係性もなく、関係性が存在する必要もないのであるが、パウロは敢えて、「この(ギ:トウト)」を四回も繰り返すことによって、両者の間には継続性という関係があること主張している。また、あえて「この」という表現を用いることによって、一番近くにある自分の身体を指して「This」と言い、自身も死ぬものに含まれていることを強く表している。自分はキリストの復活まで死ぬものとはならない、とパウロは考えていない。
また、その継続性を表すもう一つの表現として、「着る(ギ:エンディセータイ)」が用いられている。これは古いユダヤ教の慣用句で(「シビュラの託宣」2章245-246節、「イザヤ昇天記」4章17節etc..)、肉体が変わろうとも着替えのように本人の連続性が担保されることを意味することを意味する。どのように解釈しても、実際の所大差はないのであるが、しかし、この「着る」という表現については、微妙なニュアンスの違いから解釈の意見が分かれていることは知っておく必要がある。
主な説は二つであり、古い肉体の上に重ね着するように新しい肉体が与えられる、即ち古い身体から新しい身体で再創造されるという説と、古い身体が消え去り、新しい身体に置き換えられる換装説がある。筆者は、前回の解説含め、「重ね着説」の立場を取っている。実際、古い身体が新しい身体に再創造されるという点に於いてはどちらの説も言っていることは同じなのだが、古い身体をベースに新しい身体が再創造されるという文脈上、血肉の身体と霊の身体の間には連続性が保たれている必要があり、それを適切に表現しようとする際には、重ね着説のほうが妥当であると考えられるからである。また、Uコリント5章4-5節に於いて、「この幕屋を脱ぎたいからではありません」「死ぬはずのものが、いのちによって飲み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです」とパウロは言っており、肉体を捨てたいのではなく、むしろ新しいものを上から着たいのだという趣旨の物言いからも、重ね着のように解釈するほうが良いと思われる。
また、「ことになる」という表現は、「そうすべきである」とも訳すことが出来る。朽ちないものは、神の国に入る為に、朽ちないものを着るべきである。そうしなければ、決して神の国に入ることは出来ず、永遠の滅びの道を辿ることになるだろう。
〇54b〜57節
この説で引用されている聖句は、イザヤ25章8節と、ホセア書13章14節からの引用である。パウロは、旧約原文との相違については、主のなされることを受動態に置き換えて表現するユダヤの伝統にのっとり、72人訳以外のギリシャ語聖書(セドティオン、アクラ)の伝統に従って引用を行っているようである。「とこしえに」を「勝利に」と訳するのもギリシャ語聖書の伝統である。この訳し方は、Uコリント人への手紙5章4節でも特徴がみられる。
また、ホセアからの引用について、パウロは陰府のことを死と言い換えて引用している。パウロは死後の世界の事についてはあまり語らない傾向があり、これが現れているように見える。また、実際に引用されているホセアの箇所と、パウロの引用して話す文脈は完全に逆になっている為(ホセアでは、裁きとして死が招集され用いられているが、パウロは死を排除して嘲笑する文脈で用いられている)、これはむしろホセアを引用したというよりは、それになぞらえてホセア風に新しい詩をパロディのように作詞していると考えるほうがよさそうである。
「死(ギ:サナテ)」の「とげ(ギ:ケントロン)」とは、一体何であるのかが、この箇所によって言い表されている。
死の「とげ」とはなにか。それは「罪(ギ:ハマルティア)」であり、その罪の力の根拠となるのが、罪が何であるのかを規定する「律法(ギ:ノモス)」であるとパウロは定義している。法が無ければ罪はなく、罪が無ければ裁く根拠も見出されない。それ故に、人類全体が罪びととして裁かれるべき存在であり続ける限り、悪を罪として裁く為の律法こそが、死を私たちにとっての有害なものへ変化させる源泉になり得るのである
ここで大切なのは、実は、死自身にはとげがないというところである。死そのものは実は有益なものであって、「とげ」があることによって、私たちにとって有害なものへと変わりうるという奥義も、ここで開示されている。死という概念自体は、神によって創造されたのであるから、その存在に有益な役割が一切ないと考えるのは、普通に考えても無理筋であろう。
これまで何度も言っているが、死は元来私たちを主の再臨の日、私たちの復活の日に送り届ける運び屋に過ぎない。この運び屋が無ければ、先に生まれた者は、後に生まれた者が「生き終える」まで延々と待たねばならず、その救いに致命的な損害を与えることになる。人間は長く生きても悪いことしか考えないからである。また、そのように長く生きて、待つことに倦んだ人々は、後に生まれてくる人々の人生と訓練に著しい不利益を齎すことになる。それ故に、既に生きて目的を果たし終えた人を終わりの日へと輸送する死は必要不可欠なのである。
しかし、罪によって私たちが滅ぼされる結果から免れることが出来ないという状況下に限って、死は私たちに牙をむく。死ねば、悔い改めることすら許されない滅びへの直行便に乗せられてしまうからである。この一点に於いて、死は私たちにとってこの上もなく有害となるのである。
しかし、今やキリストの十字架の贖いによって、それらの不安要素(とげ)は全て取り除かれた。私たちが、信じて握っているこの約束は決して無駄ではなく、私たちがこの約束の為に担わなければならない労苦も、全て無駄にはならない。何故なら、十字架による勝利は、既になされ、その勝利は宣言し終わっているからである。
〇58節
「堅く(ギ:ハドライオイ)」は、しっかりと、動かされずに立つようにという励ましの言葉であり、「動かされることなく(ギ:アメタキネトイ)」と合わせて、ちょっとした出来事でたやすく動いてしまいやすい、きまぐれなコリント人の傾向に抗うように勧めている。
その為には、これまでに開示された奥義を信じて、堅く握りしめなければならないのである。
復活の奥義をしっかりと理解し、そこに立ち続けていれば、彼らが揺らぐようなことはそうそう起こらないだろうと、パウロも期待しているのである。
これは、コリントだけでない、全てのクリスチャンにとって大切なことである。私たちは目に見えない、形ないものを信じているので、何かあればすぐにその心は移ろいでしまいやすい。そのもろさは、使徒という確かな証者が居た当時のコリント教会よりもはるかに上である。
だからこそ、私たちは良く知り、よく学び、良く弁えて、奥義を握って堅く立たなければならない。堅く立つからこそ、私たちの人生は主に在って決して無駄になることがないと、はっきり証することができるようになる。
何故なら、私たちの労苦が私たちに目論見通りに有益となるのではなく、主ご自身が無駄になろうが、ならなかろうが、私たちの労苦を用いて事を為して下さる方だからである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇血肉の身体では神の国に入れない
50a 兄弟たち、私はこのことを言っておきます。
50b 何を?:血肉のからだは神の国を相続できません。
50c なぜなら:(その仕組み上、)朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(ないからです)
〇終わりの日の奥義
51a 聞きなさい、私はあなたがたに奥義を告げましょう。
51b その奥義とは:私たちはみな眠るわけではありませんが、みな変えられます。
52a 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられます。
52b ラッパがなると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
53a この朽ちるべきものが、朽ちないものを必ず着ることになります。
53b (また、)この死ぬべきものが、死なないものを必ず着ることになるからです。
〇死への勝利
54a そして、この朽ちるべきものが朽ちないものを着て、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、この記されたみことばが実現します。
54b 御言葉1:「死は勝利に飲み込まれた」
55a 御言葉2:「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか」
56a 死のとげは罪(のこと)であり、罪の力は律法(のこと)です。
57a しかし、神に感謝します!
57b 何を?:神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに(十字架の血潮による罪の贖いという大きな)勝利を与えて下さいました。
〇コリント信徒への薫陶
58a ですから、私の愛する兄弟たち。
58b 堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。
58c あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているからです。
着情報3.メッセージ
『奥義(おくぎ)の日』
聖書箇所:Tコリント人への手紙15章50〜58節
中心聖句:『ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。』(Tコリント人への手紙15章58節)
2025年1月26(日) 主日礼拝説教要旨
アメリカでは新しい大統領が就任し、それに付随して世界中で変革が起きようとしています。世の中で大きな出来事がある度に、私たちは慌てふためいて右に左にと揺れ動かされてしまいます。まして自身の生死がかかるような出来事となれば、私たちは到底落ち着いてはいられないでしょう。しかし、今日の箇所でパウロは、そのような状態でも揺り動かされない信仰を手に入れるよう促しています。私たちが何事にも動じない信仰を手に入れるにはどうすればよいのでしょうか。それは、奥義の日への確信を持つことであるとパウロは教えます。
これまでの箇所で、パウロは復活の日に私たちの肉体がどうなるのかについて述べてきました。そして、その締めくくりとして、終わりの日にどのようなことが起こるのかについて、その奥義(おくぎ)をコリント信徒たちに開示したのです。奥義とは、神様の啓示によって明らかにされていながらも、霊的な洞察力を持たない人々には隠されている出来事を指します。パウロは、一般の人には隠されながらも、使徒や一部の人々には見えている「終わりの日に何が起こるのか」についての奥義を、コリント教会の信徒たち、及び私たちに開示したのです。
奥義の内容はこうです。まず、イエス様が再臨される終わりの日に、天使によるラッパが吹き鳴らされます。すると、瞬きの間のような一瞬のうちに、私たちは新しい身体へと再創造されるのです。この時、生きているのか、死んで骨だけになっているのかは関係ありません。皆、同じように再創造されるのです。ですから、終わりの日に死んでいても、偶々生きていても、私たちの利益には何の差もありません。私たちはその時を境に、全く新しくされて、死とあらゆる苦役から解放されるのです。何故なら、その瞬間に死が役目を終えるからであります。
死は、本来神様に創造された良いものでありました。死は、元来は神様の定めた生きるべき時間を生き終えた人を、終わりの復活の日まで運ぶ、いわば乗り物としての役目を与えられ創造されたものです。しかし、アダムによって人間の心の内に罪の性質が入り込み、罪によって人が滅びに定められるようになると、死は滅びへの直行便となり、とげのある存在となりました。それ故、私たちは走るべき工程を全て走り終えた時に死を喜んで迎えるのではなく、それに怯え、逃げまどい、惨めに生き延びようとするようにされてしまったのです。しかし、私たちの罪の罰の身代わりとなって死んで下さったイエス様の、十字架の贖いが与えられている今、死はもはや害ではなくなったという事ができます。私たちは、十字架によって救いが保証されているので、例えいつ死という乗り物に乗り込んでも、必ず死者の復活の日、栄光の日へ送り届けられるという確証を与えられています。だから、例え今この瞬間に死ぬようなことがあったとしても、私たちは恐れず、それを平然と見据えて迎えられるようになるのです。
私たちは、生きていても、死んでいても関係なく、勝利の日へ必ず踏み込むことが出来る約束を与えられているので、世の中のあらゆることについて動揺しなくなります。死を恐れる必要もなく、また、あらゆる出来事に於いて、天の父なる神様の御手が働かれていることを、確信をもって見据えることが出来るからです。この「奥義の日」への確信を堅く握り続ける限り、私たちは動揺しませんし、自身の全ての労苦が無駄にならないことを知っていることになります。私たちの労苦は、私たちの目論見や計画によってではなく、神様の御手の業によって生かされるからです。今日死んでも、私たちは必ず勝利する約束が与えられている。この信仰を、私たちは持っているでしょうか。この奥義を、どのように受け止められるでしょうか。
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