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牧師の説教ノート(2月2日分)
聖書箇所:Tコリント人への手紙16章1〜4節

1.時代背景、舞台、文脈背景

 非常に短い箇所であるものの、大切な内容が綴られている箇所である。
 この箇所は、エルサレムの為の義援献金について触れられているところである。

 コリント教会は、多くの風紀面に於いては憂う所の多い教会であったが、献げるという一点に於いては行動の早い教会でもあった。他の教会に先んじてエルサレムへは献金を送り、しかも、それが教会の総意であったという事実に於いては、パウロは彼らに賞賛を送っている(Uコリント8章10〜11節、9章2〜5節)(その後で少し勢いが竜頭蛇尾になりかけはしたが)。

 今回の事についても、パウロはガラテヤの教会から義援献金について聞いたコリント教会が、パウロが言う前に先んじて質問したものであると思われる。それが、真の信仰からくるのか、特別に見栄っ張りな性格からくるのかはわからないところであるが、少なくともこの質問についてパウロは喜んだことだろう。

 この義援献金そのものの趣旨とは少し異なるが、この箇所では大切なことがいくつか記されている。
 一つ目は、週の初めの日、即ち日曜日に献金を教会で捧げて積み立てるという事について言及されているところである。新約聖書の中では、日曜日の聖性について語られているところは少なく、日曜日の主の日を記念して教会に集まるということについて、まだ神学が形成されきる前であったことも含めて、あまりはっきりとパウロは言及していない為、この記述は貴重である。

 二つ目は、献金が帯びる特性について、少なからず窺い知れる記述があるところである。
 それは即ち、

 ・献金は、積み立てる物である。
 ・したがって献金は、収入に応じて担うものであって、身を滅ぼすことは求められていない。
 ・献金は、指導者から求められて集めるものではなく、各々が自覚をもって取り分けるものである。
 ・献金は、集めた後、信任を得た者が取り扱うものである。
 ・したがって献金は、各々が献げた後も、それが適切に扱われたか注視せねばならならず、献げて終わりというものではない。

 ということである。

 献げものは、各々の献身の気持ちを表すものであるのは大前提である。しかし、それと同時に、必要を見て、それに応じて自身の担うべきものを自発的に担い、献げるものでもなければならない。
 決して、指導者に煽られて強制されるのでもなければ、周りに流されてするのでもなく、自身の意思と決断と責任において献げられるべきものである。

 それはひいては、一人びとりが、自分たちがキリストに召された民の一人びとりであって、一つの教会という狭い区切りではなく、行動の教会全体に属する、神に仕える祭司なのであるということを良く自覚し、万人祭司の概念を良く自覚せねばならないということにつながる。

 万人祭司(ばんにんさいし)とは、Tペテロ2章5〜9節と黙示録1章6節、5章10節の御言葉に則って、神に召された聖徒は、それぞれが神に仕える祭司であるという考え方である。
 旧約の時代は、モーセや預言者、王、祭司などの一部の指導者によって霊的な物事が推移し、他の人々はそれに従うだけの一般会衆であったが、それらの特定の人々による霊的支配は、キリストの十字架と共に破棄され、キリストの十字架に在って贖われた全ての人が、神の国の民とされ、御国を相続するものとされ、そして神に仕える祭司として聖別されたのである。それ故に、教会の中には祭司の職を担わず、何の責任も持たない一般会衆は存在しない。
 「牧師や役員等、特別な人々だけが神に仕えるのであって、自分は唯の一般会衆だから何の責任もない」と考えることは間違いである。各々が、それぞれの能力に応じて、神に祭司として仕えているのである。故に、教会の中に重要でない存在は一人も居ない。

 この自覚が十分になされた時、それぞれが主の前に献げる、という事について良く知ることができるのである。


〇1節

「聖徒たち(ギ:ハギオウス)」は、基本的には全教会の信徒たちを指す言葉であるが、ここに至っては文脈的に、エルサレム教会で礼拝を捧げている信徒達を意味する者である。

 エルサレム教会は、全教会の中でも特に貧しく、またそれと同時に金銭を必要とする教会であった。それは、エルサレムが聖地であるという特性上、多くの巡礼者や旅人が訪れるのが常の土地であり、また、ユダヤ人たちは慣習的に旅人をもてなす必要があったからである(創世記18章1-5節)。更には、教会に集う人々は社会的に貧しい場合が多く、彼らの世話をするために、一定以上の金銭が必要になるのは当然のことであった。それらの必要を、教会が自分たちだけで賄うことは難しく、それ故に、パウロなどが号令して、エルサレム教会への献金が集められたのである。

 「献金(ギ:ロゲイアス)」は、税金や貧困者向けの募金などを表すのに使われる言葉で、献金という言葉をこの単語で表している箇所は、新約聖書もここにしかない。それ故に、各々が献じる愛の義援献金であったことはすぐにわかるものである。

 
〇2節
 
「週の初めの日」、これが一体何曜日であるのかについては、議論を重ねたい人々がいるようであるが、当時の時代の常識的に言えば、週の初めの日は日曜日である。何故なら、安息日は「七日目」であり、週の終わりに主が休んだが故に聖別されてきたという大前提が存在するからである。一週間は日曜日から始まり、土曜日で終わるというのは、古いユダヤの時代からの慣例であり、パウロが手紙を書くこの時代においても当たり前のことであった。

「収入に応じて(ギ:ユーオドタイ)」は、正しく(ユー)、道を進む(ホダオウ)が合わさって生まれた言葉であり、「首尾よく儲けがあれば」とも言い換えることが出来る。私たちに収入があり、それによって自身が儲けることが出来たと思うのならば、そこから献げものを取り分けて捧げることが、私たちには求められるのである。

「蓄える(ギ:セサオウリゾウン)」は、手元に取り分けておくという意味であり、献金がどのようなものであるかの本質に迫るものである。その蓄える場所が、自宅であったのか、それとも教会であったのかについては定かではないが、何にせよ、献げものは急にまとまった額を集めて献じるようなものではないということが判る。

 献げものは、それぞれが自身の収入に応じて集められるものであり、パウロのような特定の指導者に言われてから集め始めるものではない。それぞれが自覚をもって積み立てて置くものである。

 また、それらは、「収入に応じて」積み立てるものであって、身を滅ぼすような献げ方をするようなものではない。身を滅ぼさない範囲で、しかし指導者に求められてではなく、自発的にいくらかを取り分けて積み立て、神の前へと持っていくものなのである。

〇3〜4節
 「承認を得る(ギ:ドキマセーテ)」は、皆から信頼を得て承認を受けることであり、皆の目から見て公正にそれを扱うことができることを指す。
 それは即ち、献げものは献げたところで終わるのではなく、献げた後に於いても、各々が信用できる人に委ね、内外から見て正しく処理されなければならない。

 それは即ち、献げものについて、献げたところで興味を失ってはならず、献げた後に、それらが正しく用いられているかについても、各々が興味を持って注視し、承認を得た人々によって最後まで用いられたかを知っておかなければならないということである。献げものは献げるところまでで、その後についてまでとやかく言ってはいけない、という風潮もないではないが、しかし、承認された人々による正しい取り扱いが必要であるということは知っておかねばならないし、承認を受けた者は、そのように最後まで正しく用いるところに責任があるということを、知っておかなければならないのである。

2.詳細なアウトライン着情報

〇エルサレムへの義援献金について

1a さて、(エルサレム教会の)聖徒たちのための献金についてです。
1b これについては、(あなた方が伝え聞いたのであろう)ガラテヤ諸教会に命じたとおりに、あなたがたも行いなさい。

2a (これを集める際には)私がそちらに行ってから献金をあつめることがないようにしなさい。
2b (そのために、)あなたがたはそれぞれ、収入に応じて、いくらかでも手元に蓄えておきなさい、
2c いつ?:毎週の始まりの日(日曜日)に。

3a 私がそちらに着いたら、手紙を持たせてエルサレムに派遣しましょう。
3b 誰に?:あなたがたの証人を得た人たちに。
3c あなた方の贈り物を届けさせるのです。

4a (私は別の道でエルサレムに向かうつもりですが、)もし、私が(道中同じ道で)行くほうが良いと(誰かがもし)願うならば、
4b その人たちは、私と一緒に(同じルートでエルサレムへ)行くことになるでしょう。

着情報3.メッセージ

『備えて献げる』
聖書箇所:Tコリント人への手紙16章1〜4節
中心聖句:『あなたがたはそれぞれ、いつも週の初めの日に、収入に応じて、いくらかでも手もとに蓄えておきなさい。』(Tコリント人への手紙16章2節) 2025年2月2(日) 主日礼拝説教要旨

 Tコリント人への手紙も最後の章となり、献げものについて取り扱う箇所が開かれました。献金は、私たちの感謝と献身の気持ちを表すためのものです。だから強制されたり、牧師や役員等の指導者に迫られたり、煽られたりして行うものではありません。最近は何かとマイナスなイメージが付きまといがちな「献げる」という行為ですが、献げものは私たちの信仰生活の中心的な事柄でもあります。今日は、この献げものにまつわる箇所を通して、「献げもの」という事柄について、良く考える機会を持ちたいと思います。

 今日の箇所で話題になっている「聖徒たちのための献金」は、当時、様々な事情で経済的に困窮していたエルサレム教会へ送る義援献金のことです。聖地という特性上、多くの巡礼者や死を待つ困窮者を養わなくてはならないエルサレム教会は、常に資金が足りず困窮していました。そのようなエルサレム教会の窮状を、パウロは諸外国の教会に訴えました。コリント教会は、その訴えに応答し、他の教会に先んじて義援献金を贈ることを決断したのです。そういう訳で、この献金は日々の献金とは少し特性が違いますが、いくつか学べることがあります。
一つ目は、献げものは日々の収入の中から聖別し、取り分けながら積み立てて用意するものであるということです。献げものは、神様から与えられた収入の中から、その額に応じて、感謝をもって自主的に取り分ける時に、尊いものとなります。嫌々取り分けたり、余って要らなくなったものだけを献げたり、後先考えずに全ての収入を投げ入れるような献げ方は、神様が喜ばれるものではありません。神様は献げものそのものよりも献げる私たちの心の中を見られます。献げものは、私たちの感謝の気持ちを表すものであることを忘れてはなりません。

 二つ目は、献げられた献金は、必ず信任されたものが取り扱わねばならないという部分です。献げものは、神様と献げる人の間の中のことであるというのはその通りなのですが、献げ終わったら、後の事については興味などない、という態度ではいけません。神様への供え物が全て適切に取り扱われているのかについて、しっかりと関心を持って注視することもまた、大切なことなのです。何故でしょうか。それは、キリストの十字架の贖いによって救われた私たち一人びとりが、聖霊を宿す神の霊の宮であり、それに使える祭司だからです。神様の御用に何の関係もない一般会衆であるなら、献げた後のことは祭司に任せて興味を失ってもよかったでしょう。しかし、私たちは、全員が神様によって取り立てられた祭司です。それ故に、献げものの行く末にまで興味を持たねばなりません。私たちは、一人びとりが万人祭司(ばんにんさいし)の中の数えられており、献げものだけでなく、奉仕や教会の運営、設備、魂の取り扱いに至るまでも、全て神様から委ねられ、預けられています(Tペテロ2章5〜9節、黙示録5章9-10節)。神様から教会を委ねられておらず、居ても居なくても良いなどという存在は、イエス様を頭とするこの神の民の群れの中には、一人たりとも存在しないのです。

 神様は、私たちに教会という大切なものを委ね、キリストの身体に仕える祭司として、一人びとりを召されました。祭司の生活を満たすのは神様の役目ですから、それ故に、私たちは神様から日々の生活の糧を与えられ、あふれるばかりの恵みを注がれているのです。だから私たちは、自身が受けている恵みを、神の教会に仕える一人の祭司としてどのように用いるか考えなければなりません。だから、教会の必要についても十分に熟知し、その上で、自らの背負う重荷を、自身の収入と照らし合わせながら決断し、備え献げていくのです。私たちは、各々特別に召された神の祭司です。この事実に対し、どのように応答することができるでしょうか。



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