1.時代背景、舞台、文脈背景
テモテの訪問の可能性、及び、アポロの訪問の可能性の、両者について語っている箇所である。
パウロは、テモテをコリント教会へエラストと共に遣わしたのであるが(Tコリント4章17節)、自身の伝道計画の先触れとしてマケドニアに遣わした為、海路ではなく、陸路の困難な道行きを行かせることになり、無事に到着するかどうかは未知数だったようである。
それ故に、パウロは「テモテがもし到着することが出来たならば」という仮定の中で、テモテがコリント教会の中で軽んじられないようにと厳しく言い含めている。
また、それと同時に、コリント教会の信徒達が熱望している、雄弁家のアポロの再訪問についても、アポロ自身が堅く拒否しているので、決して実現しない旨がコリント教会の人々に知らせているようである。。
アポロがコリント行きを拒否した理由は、コリントで起こっている諸問題を全て知っているからのようである。「アポロ派のような派閥が生まれ、キリストの福音に対して自身の存在が阻害になるのならば、絶対にコリント教会を訪問するつもりはない」と、アポロは堅い意思を持って、パウロのコリント行きへの勧めに対し、NOと返答したのである。
遣わされても重んじられることが無いテモテのケースと、熱望されているのに絶対に遣わされるつもりがないアポロのケースから、私たちが、主の働き人に対してどのような態度を取らなければならないかについて、また、霊的な視点とはどのようなものであるのかについて、パウロが言っている二つの事柄を通して、ある程度学ぶことが出来るのでないかと思われる。特に、これを通して得られる霊的な視点という項目の学びは、私たちの信仰生活にとってはとても大切なものとなるだろう。
一つ目に、神の働き人は、誰であっても侮られてはならないとパウロが言っていることが注目される。例えそれが、年若く未熟であるように見えても、その人は主によって選びだされた働き人であり、その働きの尊さは、大使徒であるパウロと何ら変わりが無いとパウロは10節で宣言する。神は、働き人を使って、自らの計画を実行される。神が自分で使われると決めた器の良し悪しによって、計画された通りの御業が為されないなどということは、確実に起こり得ない。例え、サムエル記のサウルのように、その器が主の御心に反するような動きをとった時でさえ、神は速やかにその動きに対応されて、ダビデのような代わりの器を選び、その御心のままに計画を達成されるのである。サウルも、相応しくなくなるまでのしばらくの間は、神の計画にとって必要不可欠な役割を果たした。到底人間の目から見れば相応しくないような器であっても、それを用いられるのは神御自身である。その視点について、私たちはしばしば忘れてしまい、光を宛てることが出来ないのではないだろうか。
神が、自らの選んだ器について「相応しくなくなった」と判断されれば、その器は役目を終え、神御自身の御手によって速やかに退けられる。その働きは実に迅速である故、私たち人間の側が、神の選んだ器を自分たちの物差しで測り、「悪し」と判断してはならないし、自分たちの手で退けることも許されない。これは、常に私たちが自身に大して戒めるべき事柄である。ダビデが、決してサウルの命に手をかけなかったように、私たちもまた、神の建てた権威を、自身の手で破壊するようなことを行ってはならないのである。
二つ目に、主の働き人に対して、人間的な期待を寄せてはならないことを、アポロがなんとかコリント教会の人々に教え、悔い改めさせるように勧めている部分が注目される。私たちは、人間の目、またこの世の価値観によってついつい物事を見てしまう為に、「パウロやアポロのような、有能な働き人にこそ、自分たちの教会の働きをして欲しい」と期待し、求めてしまう傾向がある。しかし、それは間違いであるとはっきりパウロもアポロも言い切っている。主の御業は力強く、人間の能力の良し悪し程度ではその業の結末に変化など訪れないのだという視点を、私たちは持たなければならない。
私たちは、普段から目で物を見るので忘れがちになるが、神の計画を進め、それを実現させようと働かれているのは、働き人本人ではなく、その働き人を使って御業を起こされる神であることを失念してはならない。例え雄弁なアポロがそこに居ようと、頼りないテモテがそこにいようと、神がその場で起こされると決められた働きの結果に変化などあるはずもなく、また、その成果についても(その働き人が神に忠実であるかぎり)、なんら差など出るはずが無いのである。
そういう意味では、神に忠実な働き人がやってくるように切望し、祈ることは、間違った態度ではないかもしれない。しかし、例え忠実でない働き人がやってきたとしても、神は一見計画の妨げになるような存在すらも用いて、自身の働きを完成されることも知っておかなければならない。神の働きに相応しくない人間がやってきたならば、その相応しくない人間を通して、神は何かを行われようとしているからである。勿論、だからと言って、その人物が行っていることを全て見過ごせば良いというわけでもない。正しくないことは正しくないと指摘することも必要である。要するに何が言いたいのかと言えば、目の前で起こっている出来事に一喜一憂せず、その場その場で自分が行うべきことを、こつこつと、かつ適切に行っていれば、常に最良の結果になるように、後は神が働いて下さるということである。
究極的に見れば、それは誰が来ようと、何があろうと、私たちは人間ではなく、神の御業のみに目を向けて行動しなければならないという事である。また、その霊的な視点の存在に気づき、これを身に付ける時、私たちは誰であれ、神によって何にも揺るがされない安らかさを与えられる。働き人がどうであれ、設備が何であれ、状況がどうであれ、そこから物事を為されるのは神であり、神の計画は常に私たちに恵みを持って臨むからである。。
〇10〜11節
「もし〜着いたら(ギ:エルセー)」は、万が一、もしかするとそちらに行くかもしれないので、というアオリスト、仮定系、能動相で表現されている。「やがてそちらについたら〜」という仮定の話ではなく、テモテの到着そのものがあるかないかわからないという文脈でパウロは話しているようである。
どうしてこのような表現になっているのかについては、事情が確定しないので不明である。あなたがたのところにつかわした(Tコリント4章17節)と、はっきり書かれている割には、その到着について仮定形で書かれているという状況について、何か事情があったのかどうかの説明は一切為されていない。
おそらくは、テモテがまだ若く、虚弱で、旅慣れても居なかったことから、コリント教会へ遣わしはしたものの、その道程が陸路であった為(使徒の働き19章32節)、コリントへ命じた通りに到着できるかどうか疑わしかったのだと思われる。下手をすれば、テモテが足止めを受けている間に、パウロの方が先に到着してしまう可能性すらあったのかもしれない。色々と事態は想像することができる。
「恐れないで過ごせるように(ギ:アフォボス・ゲネタイ)」は、恐れないように存在させてほしいという意味であり、ここでも、「もし見たら(ギ:ブレペーテ)」という言葉が添えられて、もしやってきたら侮って軽薄な態度で脅し、怖がらせるようなことが決して起こらないようにという旨のことをパウロは依頼している。
また、「軽んじられる(ギ:エクソウセネッセ)」に、強い否定の「メ」が入っていることから、「絶対に軽んじられてはならない」というパウロの強い警告がとても強い言葉で記されていることがわかる。もし、テモテが軽んじられることがあれば、パウロは怒りの鞭をもって、秋ごろにコリント教会を訪問することになるだろう。
パウロがこのように、わざわざ釘をさすほどのことなので、恐らくはコリント教会の信徒たちの中には、テモテを快く思わず、敬意を払わないような人々が、常に一定数存在したのだろうと考えられる。
テモテは元来、ストレスで胃を痛めるような気弱な性格であった(Tテモテ5章23節)ようである上、更に年若くもあったので、若輩者の頼りない態度にいらつくような人々も居たのかもしれない。
また、コリント教会の人々が熱望しているのは、テモテではなく、アポロであったという所からも読み取れるが、アポロのような堂々とした雄弁な論客による堂々とした態度こそが、ローマの人々には勿論、ギリシャ人であるコリント教会でも受けが良かったのである。だから、アポロを求めている人々のところにやってきたのがテモテがやってきたならば、落胆も大きかったと思われる。
少なくとも、コリント教会の人々が求めていたのは、頼りないテモテや、テトスのような若輩の働き人ではなかった。故に、アポロは来ずにテモテが来た、と言う理由から、感情的にもテモテを軽んじかねない空気が教会の中に満ちるだろうことを、もしくは既にテモテが到着して満ちてしまっていることを、パウロは強く危惧したのである。
「私のところに来させてください(ギ:ヒナ・エルセー・プロス・メ)」も、テモテを自分のところへ来させることによって、テモテに対しどのような態度を取ったかはチェックする、という強い警告であり、コリントにテモテが到着した際に起こることに対し、パウロは可能な限り対策を建てたようだ。
〇12節
「兄弟(ギ:アデルフォ)」は、パウロが特に親しく、近しい同じ働き人に着ける敬称であり、アポロもこれをつけられていることから、パウロとの関係も非常に良好であったことが伺える。
また「アポロについては〜(ギ:ペリ・デ・アポロウ)」は、既に手紙を書く前に、コリント教会からアポロのことについて問い合わせがあったのは確実であろうと考えられる。コリント教会は、アポロの再訪問については熱望していたし、アポロの派閥も出来るほどであった(Tコリ1章12節)。
そうであるにも関わらず、アポロは、親しいパウロの強い勧めを拒否し、コリントに行くことは行わなかったようである。
ここからわかることは、コリント教会の「アポロ派」について、アポロは決して支持をすることも、興味を持つこともしていなかったという事であり、また、アポロがこれらの派閥を利用してパウロと対抗しようなどとはかけらも考えていなかったことである。
パウロも、アポロにコリント訪問を度々進めているのであるから、コリントにアポロが行くことについては何の心配もしていなかったし、止める理由もなかった。
それでも敢えて、アポロはコリント教会へ行くつもりが無かったのである。
「行く意思(ギ:セレマ・ヒナ・ヌン・エルセー)」とは、7節の神の御心(主がお許しになるなら)という言葉にかけるような導きについての話ではなく、アポロ自身が断固として行かないと堅い意志を持っていると考えるのが自然である。
また、否定の「ない(ギ:ウーク・エン)」は、未完了(過去)、直接法、能動相で表現されている為に、以前からコリントへ行くつもりが全くなく、現在もその意思が変化する様子が全くないということを示しているようである。
理由については書かれていないので分からないが、恐らくアポロ派閥が出来ているなどといった情報などを聞いて、総合的に今はコリント教会に行くべき時期ではないと堅く判断し、積極的に訪問しない意思を固めていたのかもしれない。
そうであるならば、「良い機会があれば(ギ:エウカイレーセ)」は、時期が良くなるのを見たならば、という意味になり、それはコリント教会の中から、アポロ派が消え去ること、ひいては、パウロの訪問する冬が過ぎ、コリント内の全ての不忠実な問題が解決された後であるなら、訪問しても良い、という話になる。恐らくこの解釈で問題ないだろう。
間接的に、アポロもまた、自身が訪問しないという事を堅く決意している旨を、パウロ越しにコリント教会へ伝えることによって、彼らの悔い改めを迫っているのである。
2.詳細なアウトライン着情報
〇派遣する働き人について
10a テモテがそちらへ行ったら、あなたがたのところで心配なく過ごせるようにしてあげてください。
10b 何故なら:彼も私と同じように、主のみわざに励んでいるのです。
11a だれも、彼を軽んじてはなりません。
11b 彼を平安のうちに送り出して、私のところに来させてください。
11c 私は、兄弟たちと一緒に、彼が戻るのを待っています。
12a (ところで、あなた方から要望のあった)兄弟アポロの(コリント教会訪問の)ことです。
12b 兄弟たちとあなたがたのところに行くようにと、私は強く勧めました。
12c しかし、彼は今のところ行く意思が全くないようです。
12d しかし、良い機会があれば行くこともあるでしょう。
着情報3.メッセージ
『主の働き人』
聖書箇所:Tコリント16章10〜12節
中心聖句:『彼も私と同じように、主のみわざに励んでいるのです。』(Tコリント人への手紙16章10節)
2025年2月23(日) 主日礼拝説教要旨
昨今の技術革新によって、私たちはVRなどの仮想現実を通し、実際には存在しないはずの光景を見て、訓練を行うことが出来るようになりました。仮想現実は現実そのものではありませんが、それを通して見る光景は、私たちに様々な恩恵をもたらしてくれます。例えそれが現実でなくとも、私たちにとって「見る」という行為は、とても大切なことです。その一方で、私たちは、有名な哲学者インマヌエル・カントの言うように、自分たちの知っている物の見方でしか物事を観測することが出来ません。物事の本質を、ありのままに観測することが出来ないのです。それは、私たちの仕える教会の働きについても同じことが言えます。私たちは、この世の視点ではなく、霊の視点によらねば、神様の御手の業に対して、正しい判断や理解を得ることが出来ません。私たちは、霊の視点によって物を見ることが出来ているでしょうか。
今日の聖書箇所で取り扱われている、年若く頼りないテモテと、逞しく雄弁で、頼りにもなるアポロの二人の働き人を通し、私たちは、霊的な物の見方がどのようなものであるか学ぶことが出来ます。コリント教会の人々は、頼りないテモテを侮り、その一方で、雄弁で頼りになるアポロこそ、自分たちに相応しいと考え、その訪問を切望していました。アポロ派などという派閥が出来上がってしまう程、彼の「ファン」はコリント教会に多かったようです(1章12節)。しかし、彼らに対しパウロは、「テモテは私と同じぐらいに尊い働き人である」と厳しく戒め、切望されたアポロ本人も、「そのようなコリント教会には、絶対訪問することがない」と堅い意志を示しました。それもこれも、コリント教会の人々が、この世的な視点でしか物事を見ることが出来ず、霊的な視点が養われていないことが原因でした。彼らが悔い改めて、霊的な視点を養われない限り、パウロが言う「良い機会」は永遠に訪れることがありません。
コリント信徒たちの、この世的な視点とは何でしょうか。それは、働き人の能力や資質にばかり目を向けて、神様の御計画は、神様御自身の手によって進められるという部分に目が向かない物の見方を指します。神様の御手の業は、働き人の良し悪し程度で結果が左右される程、弱々しいものではありません。一流の大工が居たとして、彼は使い古されたぼろぼろの工具では、何も作ることが出来ないでしょうか。そんな事はありません。ぼろぼろの工具でも、立派な素晴らしい家具を作ることが出来るはずです。それが一流というものだからです。同じように、この天地を造られた神様も、取り扱う働き人が誰であろうと、御自分の計画を成し遂げられます。神様ご自身が、その人を使うと決め、御業を起こされることを決められたからです。そこに不可能など、決してありません。しかし、私たちはしばしば、働き人を用いられる神様の御手の業の力強さを忘れて、働き人そのものに目を向けて一喜一憂してしまいます。ここに人間の弱さがあります。神様の御手の業の前には、働き人の良し悪しなど、大した問題ではありません。そのような部分に目を向けられることが、霊的な視点を持つということなのです。
私たちは、「神様の御手の業は、私たちのあらゆる常識を、全て覆すほどに強いものである」ということを信じ、それを前提に物事を見定める視点と思考を持たなければなりません。何故なら、目の前で起こっていることを、目で見たままではなく、霊的な視野も含めて見通すことが出来るとき、私たちはこの世の人とは全く違う次元で、物を捕らえて、考えることが出来るようになるからです。霊的な視点によって物事を見通すことが出来るようになった時、私たちは何も恐れず毎日を過ごすことができるようになります。この世の全てを覆す神様の御手の業の力強さを目撃して、知った時、私たちの生き方はどのように変わるのでしょうか。
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