『憐れまれたのは誰か』
聖書箇所:ルカによる福音書23章27〜38節
中心聖句:『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』(ルカの福音書23章34節) 2023年4月2日(日) 受難週聖餐礼拝説教完全原稿
受難週になりました。本日は棕櫚の主日と言われ、イエス様がエルサレムに入場された日と言われています。イエス様はこの時、大勢のエルサレムの住民達から「救い主がやってきた」と言われ、歓迎されました。
しかし、イエス様がエルサレムの中で様々なことを教えられているうちに、人々の心はだんだんと不満に変わり、イエス様はとうとう祭司長達によって捕らえられてしまいました。そしてイエス様は、様々な肉体的苦難をお受けになられた後、十字架で処刑される為に、ゴルゴダへと向かわされたのです。
それまで歓迎していたはずのエルサレムの住民達は、手のひらを返して「イエスを十字架につけろ」と叫び罵ったことは周知の通りであります。しかし、そのような群衆の態度がエルサレムの住人の総意であったかというと、少し話は違うようです。
本日の聖書箇所であるルカの福音書には、イエス様を憐れむ群衆や、「エルサレムの娘たち」と呼ばれる女性達の集団が登場します。イエス様は、このような女性の集団を「エルサレムの娘たち」と呼ばれていますから、彼女たちはイエス様の弟子や、ガリラヤから共にやってきた人々ではなく、エルサレムに在住している、イエス様の支持者の人々であったと思われます。
イエス様を罵る者ばかりではなく、イエス様の苦しむ姿を憐れむ人々もまた、多かったのです。彼らはイエス様が、「痛そう」だとか、「かわいそう」だと嘆き悲しんでいました。
しかし、27-28節でイエス様が『民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。」と言われている通り、本当に同情されるべきは、イエス様を憐れんでいる彼ら自身でありました。
なぜなら、彼らは全員が、例外なく「罪びと」という立場に置かれており、そのような「罪びと」はやがて、世界の終わりの日に恐ろしい裁きを受けると旧約聖書のマラキ4章1節にはっきり書かれているからです。
イエス様は、彼らがそのような裁きを自分自身が受ける立場にあるということにいち早く気づいて、自分の心の中の罪を悔い改めることを強く望まれました。
罪びとに下される裁きは、これから十字架に架かられるイエス様の肉体的な苦痛よりも、ずっと酷く絶望的なもので、29節で、『なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。』とイエス様ご自身が言われている通りなのですが、それでは、罪びとたちにはどのような裁きが下るのでしょうか。
私たちは、この聖書の時代よりも未来に生きるものですから、そのような裁きが、まず手始めとして、イエス様を拒絶した罪ある都エルサレムに、ローマ軍が侵攻するという形で起こった事を既に知っています。
その日には、神殿は破壊され、大勢の人々が殺されるという災厄が起こりました。それは、イエス様がマタイ23章37〜39節や、マルコ13章14〜20節で予告されていた通りであります。
生き残ったのは、イエス様の忠告に従って山に逃げた人々だけでありました。
しかし、そのような恐ろしい裁きも、罪びとへの裁きという神様の御業全体から見れば、ほんの些細な始まりに過ぎませんでした。
本当の患難は、これから十字架の上で死なれ、復活し、昇天されたイエス様が、再びこの世にやって来られるときに起こると、聖書は予告しています。
この苦しみは「燃える炉の日」とか、「かまどのように燃えながらくる日」(マラキ4章1節)と呼ばれ、エルサレムの住人だけでなく、全世界の罪ある人々に下される巨大な裁きなのです。
その様子は、30節に『そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。』と、イエス様が予告されている通り、凄惨を極めます。
これが世界中にふりかかるとき、罪ある人々は自分達が誰に逆らっていたのかを悟り、その裁きから逃れる事をこころから望みはじめるのですが、その時にはもう、罪びと達に逃れる場所はなく、悔い改めたところで助かる術もないのです。
それはあたかも、大洪水に襲われてから、ノアの箱舟に入り違った愚かな群衆の姿そのものです。裁かれる時になってから、自分の罪に気づいたとしても、もう遅いと、聖書は何度も警告しています。
31節でイエス様は、大患難に訪れる苦しみについて、『生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。』と言われています。
ここで言われる生木とは、イエス様御自身のことです。厳密にいうと、イエス様のように、生まれてから死ぬまで、一度も罪を犯さずに生きた義人のことであります。
罪のない義人であるならば、裁きの火の中に投げ入れられても、裁かれ燃やされる理由がありませんから、生木のように燃えないのです。
しかし、そのような苦しみを一番受けなくてよいとされている、「生木」のイエス様ですら、激しい肉体的な苦痛を、神様の御心によって与えられています。
ならば、燃える理由のある枯れ木、すなわち罪びと達は、どれほど恐ろしい裁きの炎によって苦しみを受けることになるのでしょうか。少なくとも、十字架の肉体的苦痛など生ぬるいと思われるほどに恐ろしい目に遭うことは間違いありません。
しかし、32〜38節、とりわけ35〜37節で、『民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。』と、書かれている通り、残念ながら、十字架の現場でその事に気づき、己の罪を示されて、嘆き悲しんでいる人は、誰一人としていませんでした。
彼らはイエス様に、「自分自身を救ってみろ」と言うのでありますが、本当に救いようのない人々は、彼らやイエス様の為に嘆く「エルサレムの娘達」を含め、イエス様以外の全ての人間だったのです。
もちろんこの「救いようのない人々」の中には、現代で今、聖書を読んでいる私たち自身をも含まれます。「まさか自分は関係ないだろう」と、他人事のように思っていても、私たちもまた、罪の裁きからは逃れることができません。
彼らが「自分を救ってみろ」と罵声を浴びせるイエス様だけが、実は、自分自身を救える唯一の存在でありました。なんともまた、皮肉な話であります。
しかし、イエス様はそのような自分の罪や立場に気づかない人々を憐れみ、すべての人を見渡されたうえで、十字架の上でとり無して祈って下さいました。
すなわち『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』という祈りの通りです。
このとりなしの祈りの対象には、今この場で聖書を読んで話を聞いている、現代の私たち自身も含まれています。
イエス様が憐れんでいたのは、イエス様を憎んで罵っている祭司長達や、群衆達だけではなく、自分自身の罪に目を向けもせず、日々どれほど神様を悲しませているかなど考えもしない、現代の「私たち」の顔をすらも十字架の上から見られて、イエス様は祈られたのです。
更にイエス様は、私たちが本来なら受けるべきであった、罪の対価を、御自身が身代わりに罰を受けるという形で支払って下さいました。
即ち、イエス様は私たちの身代わりとなって、「神から完全に切り離され、滅びの中に入れられる絶望」という本当の苦痛を受けて下さったのです。この恐ろしい絶望は、本来は私たちが受けるべき物でした。イエス様が体験された、この本当に苦痛に比べれば、十字架の肉体的苦痛などは取るに足らないものなのです。
以前、パッションという映画が製作され、映画館で放映されることがありました。映画館に私も家族と見に行きました。そのとき私は映画を見て、「イエス様は私の代わりに、こんな痛い思いをしてくださったのか」とか「私の為に、あんなに苦しんでお可哀そうに」などと、勝手な感想をえて帰ってきました。自分の身代わりにあんなに苦しい肉体的苦痛を受けて、耐え抜いてくださったなんてと、そう思ったのです。
しかし、それは、全くの間違いでした。
イエス様が受けて下さった苦痛は、「永遠に父なる神様から切り離される」という底知れぬ絶望です。その苦痛は、肉体的苦痛の比ではありません。
その苦痛は、宇宙船から切り離され、もう永遠にどこにも帰ることが出来ない宇宙飛行士の絶望と似ています。
永遠に孤独で、最早何の価値も意味も無く、誰との交わりも無く、ただ延々と焼かれる炎の中で苛まれつづけなければならない。
そのような絶望による苦痛を、イエス様は私たちの代わりに受け、十字架の上でその全てを精算してくださったのです。
私たちがもし、救われたい、または、クリスチャンとして敬虔でありたいと願うならば、イエス様が私たちの代わりに、どのような苦しみを受けて下さったのか、よく弁えるべきです。
しかし、そのような苦しみに見舞われて尚、イエス様は優しい目を向け、私たちを憐れんでくださいました。
そして、私たちがすぐにでも、自分の罪と、自身の立っている恐ろしい「罪びと」という立場に気づき悔い改めることが出来るように、十字架の上でとりなして祈って下さったのです。
何処までも私たちは、イエス様によって、救われる事を望まれている特別な存在なのです。
そのようなイエス様の、無限の愛と、憐れみとを受けておきながら、なお、私たちは自分の罪から目を逸らし続けます。ここに人間の罪があります。それは到底、「良いこと」ではありません。
だから私たちは、いい加減にではなく、真剣に悔い改めて、神の前に祈り、自らの罪をイエス様の前に差し出さなければならないのです。
イエス様は、十字架の上ですら私たちの為にとりなして祈って下さったのですから、すぐにでも、私たちを赦し、悔い改めを喜んで受け入れて下さいます。
恐れずにイエス様を受け入れて、自らの罪を神の前に告白し、悔い改めて、罪を赦して頂きましょう。そして、これから受ける聖餐の席に相応しいものとして頂こうではありませんか
。
次ページ
〒453-0063
愛知県名古屋市中村区東宿町2-102
TEL/FAX:052-411-5367
受付時間:午前11時から午後6時まで
(月・金休業、礼拝中は応対できません)
アクセス
地下鉄東山線「中村公園前駅」から徒歩20分
バス停「豊国神社前」から徒歩5分
バス停「東宿町」から徒歩2分
駐車場は5台分程用意があります。
隣接の立松接骨院駐車場もご使用頂けます。
(日曜日のみ)