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主日礼拝説教(4月2日分)
聖書箇所:ルカ福音書23章27〜38節

1.説教音声


2.説教要旨着情報

『憐れまれたのは誰か』
聖書箇所:ルカによる福音書23章27〜38節
中心聖句:『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』(ルカの福音書23章34節)  2023年4月2日(日) 受難週聖餐礼拝説教

 イエス様は、十字架に向けて様々な苦しみを受けられました。それを見た多くの人々はイエス様のことを「かわいそうだ」と憐み、その後をついてきました。しかし、本当に悲しまれるべきは、終わりの日に裁きを受ける、罪びとの彼ら自身でした。

27-28節:イエス様を憐れんでついてくる群衆は、「エルサレムの娘達」など呼ばれている通り、エルサレムの住人でした。彼らはイエス様がかわいそうだと大声で騒いでいたようです。しかし、イエス様は、寧ろ自分達の罪びとという悲惨な立場に気づいて悔い改めて欲しいと願い、彼らに自身の為に泣くように薦められました。
29節:なぜなら、罪びとには大きな大きな裁きが起こるからです。(マタイ23章37〜39節節、マルコ13章14〜20節)。神様による罪の裁きは、ローマ軍によるエルサレムの大虐殺から始まり、全世界の全ての罪びとに訪れる「燃える炉の日」が実現するまで続くと、聖書ははっきりとこれを予告しています(マラキ4章1節)。
30節:その日に、世界中の人々は、自分が誰に逆らっていたのかに気づき、その裁きから逃れることを心から望むのですが、最早どこへも逃れることはできません。

31節:その裁きの悲惨さは、イエス様のような「生木」、即ち義人ですら、十字架という苦難を通されているところを見れば明らかです。生木ですらこの扱いならば、裁かれる理由のある罪びとには、一体どれほど恐ろしい裁きが待っているのでしょうか
32-38節:しかし、残念ながら、それに気づき嘆く人々は、その場には誰一人居ませんでした。彼らはイエス様に「自分を救ってみろ」と罵声を浴びせますが、実際に、「救いようのない存在」は、現代の私たちを含め、イエス様以外の全ての人々でした。皮肉にも、自分を本当に救える人は、イエス様ひとりだけでありました。

 しかし、イエス様は、そのように自分の罪に気づかない人々を憐れみ、彼らが悔い改めることが出来るよう、とりなして祈って下さいました。その祈りは、現代の私たちに対しても向けられています。そしてイエス様は、私たちが受けるべき、「神様から切り離される永遠の孤独と絶望」という、恐ろしい罪の罰すら肩代わりしてくださり、私たちの全ての罪を、御自分の血で清算してくださったのです。私たちはこのようなイエス様の愛に応えて、どれほど自身の罪と真剣に向き合い、悔い改めの祈りを行っているでしょうか。イエス様は、私たちの悔い改めを心から喜び聖餐の席へ招いて下さいます。イエス様の前に心から、悔い改めて、聖餐の恵みに預かりましょう。


子供用メッセージカード 聖書箇所(せいしょかしょ)「ルカ23:27〜38」
中心聖句:『父(ちち)よ、彼(かれ)らをお赦(ゆる)しください。彼(かれ)らは、自分(じぶん)が何(なに)をしているのかが分(わ)かっていないのです。』(ルカ23:34)  4月2日(日)

今日のポイント!
※聖書(せいしょ)のむずかしいことばやわからないことは、おとうさんおかあさんではなく、日曜日に教会学校(きょうかいがっこう)で先生(せんせい)にききましょう。

1.十字架(じゅうじか)にかかるまえに、イエス様(さま)はたくさん痛(いた)い目(め)にあわれました。

2.それを、たくさんの人が「かわいそうだ」と思(おも)いましたが、イエス様(さま)は、「ほんとうにかわいそうなのは、私(わたし)をかわいそうだと言(い)っている、あなたたちのほうだよ」といわれました。なんででしょうか。

3.なぜなら、生(う)まれてから死(し)ぬまで、一回(いっかい)でも罪(つみ)をおかしたひとは、終(お)わりの日(ひ)におそろしい罰(ばつ)を受(う)けるからです。

4.罪(つみ)のまったくなかったイエス様(さま)すら、十字架(じゅうか)ですごく苦(くる)しい目(め)にあわれたのですから、罪(つみ)びとのわたしたちは、十字架(じゅうじか)よりももっと苦(くる)しい罰(ばつ)をうけることになってしまいます。

〇まとめ
 イエス様(さま)は、私(わたし)たちが、そうならなくてすむように、十字架(じゅうじか)にかかり、私(わたし)たちのみがわりとなってくださいました。イエス様(さま)は、私(わたし)たちが悔(く)い改(あら)ためて、救(すく)われることをねがってくださっています。だから、いつでも悔(く)い改(あらた)めておいのりしましょう。

☆考えてみよう
 →聖書(せいしょ)には、イエス様(さま)の受(う)けた痛(いたい)ことについてはあまり書(か)いていません。なぜでしょうか。
 →なんで十字架(じゅうじか)で苦(くる)しんでいるイエス様(さま)より、わたしたちのほうがかわいそうだとイエス様(さま)はいわれたのでしょうか。

☆やってみよう(チャレンジ)
 今(いま)までやってしまったわるいことを全部(ぜんぶ)紙(かみ)にかいてみよう。



着情報3.完全原稿

『憐れまれたのは誰か』
聖書箇所:ルカによる福音書23章27〜38節
中心聖句:『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』(ルカの福音書23章34節)  2023年4月2日(日) 受難週聖餐礼拝説教完全原稿

 受難週になりました。本日は棕櫚の主日と言われ、イエス様がエルサレムに入場された日と言われています。イエス様はこの時、大勢のエルサレムの住民達から「救い主がやってきた」と言われ、歓迎されました。
 しかし、イエス様がエルサレムの中で様々なことを教えられているうちに、人々の心はだんだんと不満に変わり、イエス様はとうとう祭司長達によって捕らえられてしまいました。そしてイエス様は、様々な肉体的苦難をお受けになられた後、十字架で処刑される為に、ゴルゴダへと向かわされたのです。

 それまで歓迎していたはずのエルサレムの住民達は、手のひらを返して「イエスを十字架につけろ」と叫び罵ったことは周知の通りであります。しかし、そのような群衆の態度がエルサレムの住人の総意であったかというと、少し話は違うようです。
 本日の聖書箇所であるルカの福音書には、イエス様を憐れむ群衆や、「エルサレムの娘たち」と呼ばれる女性達の集団が登場します。イエス様は、このような女性の集団を「エルサレムの娘たち」と呼ばれていますから、彼女たちはイエス様の弟子や、ガリラヤから共にやってきた人々ではなく、エルサレムに在住している、イエス様の支持者の人々であったと思われます。
 イエス様を罵る者ばかりではなく、イエス様の苦しむ姿を憐れむ人々もまた、多かったのです。彼らはイエス様が、「痛そう」だとか、「かわいそう」だと嘆き悲しんでいました。

 しかし、27-28節でイエス様が『民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後について行った。イエスは彼女たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい。」と言われている通り、本当に同情されるべきは、イエス様を憐れんでいる彼ら自身でありました。
 なぜなら、彼らは全員が、例外なく「罪びと」という立場に置かれており、そのような「罪びと」はやがて、世界の終わりの日に恐ろしい裁きを受けると旧約聖書のマラキ4章1節にはっきり書かれているからです。
 イエス様は、彼らがそのような裁きを自分自身が受ける立場にあるということにいち早く気づいて、自分の心の中の罪を悔い改めることを強く望まれました。


 罪びとに下される裁きは、これから十字架に架かられるイエス様の肉体的な苦痛よりも、ずっと酷く絶望的なもので、29節で、『なぜなら人々が、『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来るのですから。』とイエス様ご自身が言われている通りなのですが、それでは、罪びとたちにはどのような裁きが下るのでしょうか。
 私たちは、この聖書の時代よりも未来に生きるものですから、そのような裁きが、まず手始めとして、イエス様を拒絶した罪ある都エルサレムに、ローマ軍が侵攻するという形で起こった事を既に知っています。
 その日には、神殿は破壊され、大勢の人々が殺されるという災厄が起こりました。それは、イエス様がマタイ23章37〜39節や、マルコ13章14〜20節で予告されていた通りであります。
 生き残ったのは、イエス様の忠告に従って山に逃げた人々だけでありました。
 しかし、そのような恐ろしい裁きも、罪びとへの裁きという神様の御業全体から見れば、ほんの些細な始まりに過ぎませんでした。

 本当の患難は、これから十字架の上で死なれ、復活し、昇天されたイエス様が、再びこの世にやって来られるときに起こると、聖書は予告しています。
 この苦しみは「燃える炉の日」とか、「かまどのように燃えながらくる日」(マラキ4章1節)と呼ばれ、エルサレムの住人だけでなく、全世界の罪ある人々に下される巨大な裁きなのです。
 その様子は、30節に『そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます。』と、イエス様が予告されている通り、凄惨を極めます。
 これが世界中にふりかかるとき、罪ある人々は自分達が誰に逆らっていたのかを悟り、その裁きから逃れる事をこころから望みはじめるのですが、その時にはもう、罪びと達に逃れる場所はなく、悔い改めたところで助かる術もないのです。
 それはあたかも、大洪水に襲われてから、ノアの箱舟に入り違った愚かな群衆の姿そのものです。裁かれる時になってから、自分の罪に気づいたとしても、もう遅いと、聖書は何度も警告しています。

 31節でイエス様は、大患難に訪れる苦しみについて、『生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。』と言われています。
 ここで言われる生木とは、イエス様御自身のことです。厳密にいうと、イエス様のように、生まれてから死ぬまで、一度も罪を犯さずに生きた義人のことであります。
 罪のない義人であるならば、裁きの火の中に投げ入れられても、裁かれ燃やされる理由がありませんから、生木のように燃えないのです。


 しかし、そのような苦しみを一番受けなくてよいとされている、「生木」のイエス様ですら、激しい肉体的な苦痛を、神様の御心によって与えられています。
 ならば、燃える理由のある枯れ木、すなわち罪びと達は、どれほど恐ろしい裁きの炎によって苦しみを受けることになるのでしょうか。少なくとも、十字架の肉体的苦痛など生ぬるいと思われるほどに恐ろしい目に遭うことは間違いありません。

 しかし、32〜38節、とりわけ35〜37節で、『民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい。」兵士たちも近くに来て、酸いぶどう酒を差し出し、「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言ってイエスを嘲った。』と、書かれている通り、残念ながら、十字架の現場でその事に気づき、己の罪を示されて、嘆き悲しんでいる人は、誰一人としていませんでした。
 彼らはイエス様に、「自分自身を救ってみろ」と言うのでありますが、本当に救いようのない人々は、彼らやイエス様の為に嘆く「エルサレムの娘達」を含め、イエス様以外の全ての人間だったのです。

 もちろんこの「救いようのない人々」の中には、現代で今、聖書を読んでいる私たち自身をも含まれます。「まさか自分は関係ないだろう」と、他人事のように思っていても、私たちもまた、罪の裁きからは逃れることができません。
 彼らが「自分を救ってみろ」と罵声を浴びせるイエス様だけが、実は、自分自身を救える唯一の存在でありました。なんともまた、皮肉な話であります。

 しかし、イエス様はそのような自分の罪や立場に気づかない人々を憐れみ、すべての人を見渡されたうえで、十字架の上でとり無して祈って下さいました。
 すなわち『父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。』という祈りの通りです。
  このとりなしの祈りの対象には、今この場で聖書を読んで話を聞いている、現代の私たち自身も含まれています。
 イエス様が憐れんでいたのは、イエス様を憎んで罵っている祭司長達や、群衆達だけではなく、自分自身の罪に目を向けもせず、日々どれほど神様を悲しませているかなど考えもしない、現代の「私たち」の顔をすらも十字架の上から見られて、イエス様は祈られたのです。
 更にイエス様は、私たちが本来なら受けるべきであった、罪の対価を、御自身が身代わりに罰を受けるという形で支払って下さいました。

 即ち、イエス様は私たちの身代わりとなって、「神から完全に切り離され、滅びの中に入れられる絶望」という本当の苦痛を受けて下さったのです。この恐ろしい絶望は、本来は私たちが受けるべき物でした。イエス様が体験された、この本当に苦痛に比べれば、十字架の肉体的苦痛などは取るに足らないものなのです。

 以前、パッションという映画が製作され、映画館で放映されることがありました。映画館に私も家族と見に行きました。そのとき私は映画を見て、「イエス様は私の代わりに、こんな痛い思いをしてくださったのか」とか「私の為に、あんなに苦しんでお可哀そうに」などと、勝手な感想をえて帰ってきました。自分の身代わりにあんなに苦しい肉体的苦痛を受けて、耐え抜いてくださったなんてと、そう思ったのです。

 しかし、それは、全くの間違いでした。

イエス様が受けて下さった苦痛は、「永遠に父なる神様から切り離される」という底知れぬ絶望です。その苦痛は、肉体的苦痛の比ではありません。

 その苦痛は、宇宙船から切り離され、もう永遠にどこにも帰ることが出来ない宇宙飛行士の絶望と似ています。
 永遠に孤独で、最早何の価値も意味も無く、誰との交わりも無く、ただ延々と焼かれる炎の中で苛まれつづけなければならない。
 そのような絶望による苦痛を、イエス様は私たちの代わりに受け、十字架の上でその全てを精算してくださったのです。
 私たちがもし、救われたい、または、クリスチャンとして敬虔でありたいと願うならば、イエス様が私たちの代わりに、どのような苦しみを受けて下さったのか、よく弁えるべきです。

 しかし、そのような苦しみに見舞われて尚、イエス様は優しい目を向け、私たちを憐れんでくださいました。
 そして、私たちがすぐにでも、自分の罪と、自身の立っている恐ろしい「罪びと」という立場に気づき悔い改めることが出来るように、十字架の上でとりなして祈って下さったのです。
何処までも私たちは、イエス様によって、救われる事を望まれている特別な存在なのです。

 そのようなイエス様の、無限の愛と、憐れみとを受けておきながら、なお、私たちは自分の罪から目を逸らし続けます。ここに人間の罪があります。それは到底、「良いこと」ではありません。
 だから私たちは、いい加減にではなく、真剣に悔い改めて、神の前に祈り、自らの罪をイエス様の前に差し出さなければならないのです。

 イエス様は、十字架の上ですら私たちの為にとりなして祈って下さったのですから、すぐにでも、私たちを赦し、悔い改めを喜んで受け入れて下さいます。

 恐れずにイエス様を受け入れて、自らの罪を神の前に告白し、悔い改めて、罪を赦して頂きましょう。そして、これから受ける聖餐の席に相応しいものとして頂こうではありませんか



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 (日曜日のみ)