『御言葉を信じる』
聖書箇所:ルカによる福音書24章13〜27節
中心聖句:『キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか』(ルカの福音書24章26節) 2023年4月9日(日) イースター召天者記念合同礼拝説教完全原稿
イースターおめでとうございます! 今日のこの素晴らしい時を共によろこびましょう。
イースターは、イエス様が十字架の上で死なれてから、三日目の朝に死人の中から復活された日を指します。
この日、イエス様はその復活された姿で様々な人のもとに現れて、御自身が復活されたことを証しされました。
さて、本日取り扱う聖書の箇所では、エマオへ向かう二人の弟子が登場します。この二人の弟子が、エマオへの途上でイエス様に出会う話はとても有名で、イースターでも良く取り上げられる箇所です。
この二人がイエス様に出会ったことそのものは有名な話ですが、この二人がイエス様によってどのような大切な事を教えられたのか、皆さんはご存じでありましょうか。今一度、この箇所の御言葉に興味を持って、良く読んでみるというのも、悪くないのではないかと思います。
13-15節で、「ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。」と書かれている通りに、イエス様は、このイースターの朝に、エルサレムからエマオへの道を歩いている、二人の弟子達のもとに近づいてこられました。
しかし、16節で「しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。」と書かれている通り、この二人の弟子はその人がイエス様であるということが判らなかったようです。彼らだけでなく、復活されたイエス様のことは、イエス様がそう望まれない限り、誰も気づく事が出来ませんでした。イエス様は、もう既に地上の人ではなく、天に属する方であるので、イエス様が望まれない限りは、誰もイエス様をその人だと知って出会うことが出来なくされていたようです。
何はともあれ、イエス様は、17節で「イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」」と書かれている通り、二人の弟子に、彼らが話していた十字架の事について尋ねられました。
二人はこの質問に驚いて、18節から「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」と質問しています。
自分達の後ろから追いかけるように話しかけてきたにも関わらず、十字架の事について何も知らないという無知について、彼らは驚いたようでした。
しかし、実際に何もわかっていないのは、彼ら自身であったようです。
彼らの二人の内の一人、クレオパはイエス様に対して、十字架の一連のことを説明します。
18〜24節で、「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」と、内容はこのように語っている通りです。
彼ら二人のこのような説明は、イエス様の十字架の事について何も理解していなかった事をはっきり表しています。彼らはイエス様の十字架が、自分達の罪を贖う為の犠牲であることも、また、それによって自分達が既に解放されていることも、何も悟っていなかったのです。
それは、彼らを含め、イエス様のお弟子達は全員そうであったということも注目しなければなりません。イエス様は十字架の事も、御自身が苦しみを受けて復活されることも弟子達に話していたにも関わらず、何故、このように、イエス様の十字架について悟る人が、弟子達の中に一人も居なかったのでしょうか。彼らの信仰が薄かったからでしょうか。
そうではありません。少なくとも、このクレオパという弟子は、イエス様について「イスラエルを解放する方」だと望みをかけていました。イスラエルを解放するとは、贖うという意味のギリシャ語が使われています。それはイエス様こそ救い主であると信じていた、ということで、この二人の弟子の信仰がとても深かったことを現わしているのです。
にもかかわらず、彼らはイエス様の十字架を見て、何も悟ることなく、見過ごしてしまいました。そして、三日目にイエス様が予告通り復活されたにも関わらず、それを戯言であるとして信じなかったので、エルサレムを出て、エマオへの自宅へ急いでいたのです。
イエス様は、そのような二人の弟子の現状を嘆かれました。
25節で、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」と、語られている通りです。
イエス様は、ここでこの二人のお弟子の何を叱られたのでしょうか。それは、「預言者たちの言ったことを信じられない者たち」であると言われた事に加え、27節で、「それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。」と書かれている通り、旧約聖書の説き明かしをされたことからも明白です。
この二人の弟子は、イエス様の教えや奇跡、その立ち振る舞いには興味がありましたが、旧約聖書には興味を持たず、教えの中で引用されたいた多く御言葉についても、深く調べようとしていなかったのです。
例え信仰深くイエス様を救い主と信じていても、聖書の御言葉に興味が無ければ、この二人のように、イエス様の十字架のような神様の大きな御業を見ても何も悟る事が出来ず、また、その御業の大きな報せを耳にしても、信じる事ができません。
イエス様は、復活された後、しばらくの時間を使って、この大切な事を弟子達に教えようとされたのです。それは即ち、聖書の御言葉を学ぶということが、いかに大切であるかということを、エマオへの道行でイエス様は二人の弟子へ熱心に語られたのです。
私たちは、御言葉によって恵まれ、御言葉によって生かされます。私たちは神の口から出る一つひとつの御言葉によって、日々生かされているからです。
だからこそ、御言葉を通して与えられる恵み以上に、私たちは御言葉そのものに対してこそ、注目し望みを置かなければなりません。
私自身も昔はそうだったのですが、御言葉から得られる恵みにばかり目を向け、御言葉そのものについては、余り興味を持っておりませんでした。
例えば、神学生になって、塩屋の神学校で学ぶようになったあとに至っても、御言葉の大切さに気づく事が出来ていなかったのです。
ある日、罪の問題について思い悩んでいた私に、神学校で教鞭をとっておられたある先生が、Tヨハネの1章9節の御言葉からお話開いてくださったことがあります。
主の前に罪を告白すれば何度でも赦されるのだ、という事に思い至った私は、この箇所について、「これは罪に悩む人に対する慰めの御言葉に相違ない」と勝手に思い込み、「恵まれた」「恵まれた」と無邪気に喜んでいました。そして、その後にも、長らく罪について思い悩む人にこの箇所を開き、「この御言葉は罪の赦しと、慰めを得るための御言葉だから」などと、何も考えずに紹介することを続けていたのですが、それは明らかな間違いであったのです。
何故なら、この御言葉は罪に思い悩む人に対する慰めの御言葉ではなく、「キリストは実在しなかった」、「私たちは何も罪がない完全な者だ」と言いはる人々に対しての戒めの御言葉であったからです。Tヨハネ1章9節で恵まれたと喜んでいるなら、少しその周り、一章全体だけでも読んでみればそれが解ったはずであるのに、私はそれを行わず、長らくその事に気づかなかったのであります。我ながら、大変恥ずかしいことです。
私たちは、このような「御言葉に興味のないクリスチャン」になってはなりません。何故なら、私たちが、御言葉を覚えて心に刻み付け、それが事実であると信じた時にこそ、神様はそこから新しい、幾つもの恵みや気づきを私たちに与えて下さるからです。もし、私たちが御言葉が重要なものであるということを認め、かつその御言葉が実現すると信じているというならば、それを読まず、また学ばずにおくことは出来ない筈ではないでしょうか。
私たちは、死人の内より三日目に復活されたイエス様によって、罪の罰を精算していただき、買い取られた存在であるのですから、イエス様がエマオへ向かう二人の弟子に命じられたように、御言葉に興味を持ち、御言葉に学び、歩んでいくべきではないでしょうか。
32節で、二人の弟子はイエス様から聖書を説き明かされている間、自分達の心が燃やされていたと証しています。私たちの心もまた、聖書が解き明かされ、それを信じた時にこそ、良く燃やされます。御言葉学び、それを握って良く信じ、ますます心を燃やされながら、この素晴らしい日に復活された、救い主であるイエス様にお仕えしていきましょう。
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