『知るべきほどのこと』
聖書箇所:コリント人への手紙第一8章1〜3節
中心聖句:『しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています。』(コリント人への手紙第一8章3節)
2023年6月4日(日)主日聖餐礼拝説教完全原稿
久しぶりに、コリント人への手紙の学びに戻ります。章も新しくなり、取り扱われる話題も次のものへ移ります。この8章から取り扱われているのは、「偶像に献げた肉の問題」です。私たち日本人クリスチャンにとって、偶像やその備えものの問題は、非常に身近な存在です。牧師ですら、田舎では町内会の寄り合いで、近くの神社へ出かけることは良くあることです。その際に、神主さんの御好意で、供え物のお饅頭や、お神酒の余りなどが振舞われることもあるでしょう。もし、牧師がそれらを飲み食いしているのを見れば、躓くクリスチャン信徒の方も少なからずいるのではないでしょうか。ここで取り扱われるのは、そういう問題なのです。
偶像に献げた肉とは、コリントの異教神殿で捧げられた供え物の肉の事です。供えた後の肉は、供えた人や、儀式を行った祭司に与えられますが、食べきれないものは安値で市場に売りに出されます。その安い肉は、コリントの一般信徒にとって、肉を食べられる数少ない機会を提供するものでした。それ故に、この偶像に献げた肉を避けることは無理に近いものでした。
この問題の本質は、そのような肉を食べているのを見て、躓く良心の弱い人々が居るか否かといったものでした。パウロが、『「私たちはみな知識をもっている」ということは判っています』と述べている通り、コリント信徒の人々は、偶像を恐れて悩んでいた訳ではありません。むしろ、「偶像なんて居ないのだから、食べても問題なかろう」と、積極的に食べる人が多かったようです。しかし、一部の信仰の弱い人々は、偶像に献げた肉が穢れているかのように感じて、これを食べる事に罪悪感を覚えたり、時には他の兄姉をいさめたりもしたようです。
そのように、気にする人もいれば、気にしない人もおり、時折それで問題も起こったりしたので、「知識のある」コリント信徒の人々は、このグレーともいえる「偶像に献げた肉」の問題に決着をつけるため、パウロに公式な判断を求めたのでした。しかし、それは、グレーな問題をはっきりさせて、自分達の良心を安心させる為の敬虔な目的ではなく、良心の弱い人々を黙らせて優越感を得ようとする為に行われた、自己中心な目的の質問だったのです。
パウロは、例え、知識に問題が無く、行動そのものも間違っていなかったとしても、このように、弱い人々への配慮を一切行わず、むしろ黙殺しようとする「知識ある人々」の態度に問題を覚えました。それ故に、偶像に献げた肉を食べることの是非について語る前に、まず彼らに愛の配慮について教えようとし、「知識ある人々」をいさめようとしたのです。
信仰は道ですから、人によってその成熟には差があり、常に先達と後進が存在します。しかし、信仰の程度に差があるからといって、その一人びとりが神様に知られ、愛されているという事実に変わりはありません。神様は、信仰の強い人も、弱い人も愛されて、イエス様を十字架に掛けてくださったのです。しかし、私たちはそのような、クリスチャンなら誰もが知っていなければならない筈の「知るべきほどのこと」も弁えずに、信仰の弱い人々を裁き、時には虐げて排除しようとしてしまいます。ここに、配慮に欠け、自己中心な人間の罪があるのです。
信仰成長と、御言葉の知識は私たちにとって大切なものです。しかし、それによって他の兄姉を裁き、排斥しようとしてしまうならば、その知識は私たちにとって悪いものとなってしまいます。信仰の成長は、私たちが愛をもって配慮し、仕え合う為に、神様が授けて下さった賜り物です。神様の御心の通りに、互いに赦し、励まし合いつつ、共に歩んでいきましょう。
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