『王の道』
聖書箇所:ルカの福音書19章28〜40節
中心聖句:『祝福あれ、主の御名によって来られる方、王に。天には平和があるように。栄光がいと高き所にあるように。』(ルカの福音書19章38節)
2025年3月23(日) 主日礼拝説教要旨
受難節(レント)に入り、とうとうイースターまで三週間になりました。「主がご入用」なロバを、イエス様の弟子たちがほどいているのを目撃した人々は、こぞってエルサレムの城門前へ集まりました。子ロバに乗ってやってこられる、王であり、救い主でもあるイエス様を、皆がこぞって自身の上着を地面に敷き出迎えたのです。人々は心から喜んで、イエス様の前に、王の為の道を設けました。しかし、その王の道が、イエス様が全ての罪を背負って死ぬために向かう十字架へ続く道であるという事実に気づく人は、そこには誰も居なかったのです。
エルサレムは巡礼の聖地であり、救い主を待ち望む多くの人々が住み込んでいました。ですから、エルサレムの周辺に住んでいた人々は、特に聖地に救い主が現れる前兆に対し、これを見逃すまいと神経を尖らせていたのです。そんな人々が、「主がお入り用なのです」と言いながら、子ロバをほどく弟子たちを見逃すはずはありませんでした。救い主が子ロバにのってやってくることは、既に旧約聖書で予告されていたことでしたので(ゼカリヤ書9章9〜10節)、人々は、ロバを入用とする方がすぐに救い主であることに気づき、喜んでエルサレムの城門前に集まったのです。そして彼らは、確かに救い主としてやってきたイエス様を心から歓迎しました。そして、各々が自分の上着を地面に敷いて、王の為に「道」を作ったのです。
しかし、救い主を待ち望む信仰がとても尊いものである一方で、彼らは自分たちが何から救われ、救い主が何を犠牲にしようとされているのかを、何も理解していませんでした。イエス様はかねてより、自身が十字架に掛かって犠牲になる為に来られたことを宣言しておられましたが(ルカ9章22節)、十二弟子ですら、ローマ帝国へ戦争を起こし、圧政から救ってくださる英雄程度にしか、イエス様の事を理解していませんでした(使徒1章6節)。既に、十字架によって贖われたことを福音によって知らされている私たちですら、イエス様の事を「罪を赦して救って下さる方」以上に理解が出来ていないように思われます。イエス様に罪の赦しを願って祈った後は、赦されたことを単純に喜んで、それで終わりにしてはいないでしょうか。
私たちの罪が赦される為に代償が支払われたこと。これに注目しなければ、私たちも何も理解していない人々と同じです。安易に上着を敷き、イエス様に「救ってください」と呼び求めて道を作った結果、イエス様は「その道を通って」何度でも贖いの為に十字架に向かわれるからです。その姿を喜びの顔で見送ることと、「イエスを十字架につけろ」と叫ぶことの間に、一体何の違いがあるでしょうか。私たちが安易に罪を犯し、その贖いを求めて王の道を作った結果、イエス様がどのような苦しみに遭われたのか、父なる神様が一体何を犠牲にされたのか。罪を犯したことに気づく度、私たちはこれを良く自覚して聖めを求めなければならないのです。もし、それを怠るなら、私たちは安易に同じ罪を犯すことを繰り返し、喜んでイエス様を何度も十字架につけてしまいます。ここに、聖めを求めない人間の大きな罪があるのです。
そのように聞けば、罪の贖いを求めることが恐ろしいことのように思えるかもしれません。しかし、その一方でイエス様は、贖いを求める声を全く抑える必要は無いと私たちに宣言しておられます。私たちが黙っていてもかわりに石が叫びだすと言って下さるのです。私たちは、確かにイエス様の贖いを求めることしか出来ない一人びとりです。しかし、イエス様はそれをご存じの上で王の道を行き、私たちを何度も贖って下さいます。その上で、自らの後に従うようにと、私たちへ呼びかけて下さるのです。このイエス様に従い、王の道に後から続く先にこそ、本当の罪に対する勝利があります。私たちは、この呼びかけにどう応答できるでしょうか。
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