『得たと信じる』
聖書箇所:マルコの福音書11章12〜25節
中心聖句:『ですから、あなたがたに言います。あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(マルコの福音書11章24節) 2025年4月6(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
新年度が始まりました。新たな目標が掲げられ、皆で一致してこれに取り組み始めます。この一致した取り組みによって、私たちは勝利へ向かってまた一歩進むのです。私たちの勝利とは何でしょうか。それは私たちが全員で、収穫された信仰の実を共に味わうことです。この信仰の実が一体何で、どれほど素晴らしい価値あるものであるか、今日は皆で学びたいのです。
今日の箇所のいちじくの木と宮清めの出来事は、イースターの前の週である四月頃に起こりました。この時期にいちじくは、本来実をつけることがないのですが、初なりの実は葉と同時に成長します。通りがかったイエス様が、「実があるかもしれない」と思われるぐらい、この木はいかにも実が見出せそうな葉が多く茂っていたのです。しかし、実際には実は一つもありませんでした。木が枝葉を茂らせる為だけに成長しており、実をつけようとしていなかったからです。同じように、荘厳な神殿に大勢が詣でているエルサレムも、枝葉である賑わいと金銭、また繁栄だけを目指して、信仰の実を実らせず、「強盗の巣」となり果てていたのです。
では、信仰の実とは一体何なのでしょうか。それは、神様と共に歩む活き活きとした人生そのものであり、そこに生きる人を指します。神様が生きておられると認め、人格的に交わり、多くの恵みを受け取りながら喜んで生きる中に、「いのち」と呼ばれる信仰の実が育まれます。そして、この「いのち」が、復活によって永遠にされる時、私たちは「永遠のいのち」を収穫するのです。「いのち」は、福音の約束の前味として与えられる、「永遠のいのち」の初なりの実です。まだ十字架の贖いと福音宣教は成っていませんでしたが、大勢の人が詣でるエルサレム神殿には、既に神様と共に生きたいと願う、異邦人の「初なりの実」が見出されても決しておかしくはありませんでした。故に、イエス様は宮の有様に怒られ、宮清めを行われたのです。
エルサレムの一体何が悪かったのでしょうか。呪われたいちじくの木は、根元から枯れてしまいました。それは、原因が木の根元部分にあったという事です。エルサレムもまた、同じでした。枝葉だけが良く伸びた木と同様に、参拝者の数が増え、建物も立派になり、指導者も大勢いましたが、「神様が生きておられると認め、人格的に交わり、多く恵みを受け取って喜んで生きる」という一番大切な信仰の根幹部分が、全く欠如したのです。それゆえ、エルサレムは呪われるものとなりました。「イスラエルの神、主は生きておられる」という言葉は、決して飾り文句ではありません。しかし、いじちくが枯れた程度で驚いたように、神様が生きて力を持たれていることを本気で信じる人は、イエス様の弟子たちの中にすら居なかったのです。
私たちは、まじめに信仰生活を送り、献げものや奉仕も行って、自らの信仰の枝葉を広げようと日々努めています。しかし、これらは全て、信仰の実である「いのち」を収穫する為に行われなければならないことです。「永遠のいのち」こそまだ収穫できませんが、初なりである神様との交わりの生活、即ち「いのち」は、既に福音の前味として私たちに与えられています。この甘い実を食べて楽しむからこそ、私たちは日々、自らの信仰を喜びによって成長させ、進んで献身できるのです。神様は、信仰から結実する「いのち」、即ち神様との恵みと交わりの生活を、私たち自身が存分に楽しむことを許して下さっています。もし、この実の甘さをまだ一度も楽しんだことが無いのなら、私たちの信仰生活は辛く苦しいものばかりとなってしまっているかもしれません。結実の無い信仰生活ほど、苦しいものは無いからです。イエス様は、御心ならば、既に得たと信じれば、何でも与えられると約束して下さいました。私たちは建前ではなく、神様が生きておられると本当に信じて、この実を収穫し、皆で味わうべきなのです。
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