『生木と枯れ木』
聖書箇所:ルカの福音書23章26〜38節
中心聖句:『生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木には、いったい何が起こるでしょうか。』ルカの福音書23章31節) 2025年4月13(日) 受難週主日礼拝説教要旨
受難週になりました、この受難週の金曜日に、イエス様が十字架に掛かられた受難日が訪れます。本日は、イエス様が十字架へと続く道を歩かれている場所を記した箇所になります。イエス様の後には、イエス様を告発する人々や、葬りの準備の為に泣いている泣き女達、そしてイエス様の代わりに十字架を背負ってあるくクレネ人シモンがついて行きました。その中でイエス様は、特に、自分の葬りの準備を行っている泣き女たちに、自分とその子供の為に葬儀の準備をするように言われました。何故なら、彼女たちにも破滅の時が迫っていたからです。
そもそも、イエス様の後についていったこの泣いている女性達、というのは一体誰なのでしょうか。彼女たちは「エルサレムの娘たち」と呼ばれていますから、ガリラヤから付き従ってきた弟子の女性達ではありません。当時のエルサレムには、葬式の際、喪主に雇われて泣く役割を引き受ける「泣き女」と呼ばれる人々が居ました。しかし、死刑囚は泣き女を雇うことが出来ないので、ボランティアとして無料で泣き女を務める女性たちが居たのです。死刑囚の為に無償で泣くことはとても立派で功徳があることだとされていました。イエス様の後についてきたのは、そういう女性たちだったのです。イエス様は、そのような女性達に対して、「自分の為に泣いている場合ではない」と、宣告されました。何故ならこれから「『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日」がやってくるからです。
イエス様を十字架につけろと叫んだ人々も、それに賛同した人々も、また、その叫びを受けて、十字架刑の許可を出した、ポンテオ・ピラトも、本質的に行っているのは一つの事でした。それは、神の子であるイエス様を、この世界から排除し、天の父なる神様の愛とその御業の影響の一切を排除しようとしたことです。イエス様を十字架につけたことそのものが、エルサレムに住むユダヤ人たちの罪なのではなく、この世界を創造され、その主権を持ち、そして私たちを愛して下さる父なる神様の存在を排除し、一切の関りを持ちたくないと拒絶したところに、ユダヤ人たちの罪があるのです。これは、現代の私たちにとって、関係の無い話ではありません。自分の日常生活の中に神様が入って来られることを拒み、偶像礼拝や無神論、拝金主義などに走って、神様の存在そのものを拒絶しようするあらゆる動きが、エルサレムに住んでいたユダヤ人達が犯した罪と同種の罪を私たちに犯させるのです。イエス様の為に葬りの準備をしている亡き女達もまた、十字架の苦しみに対して無関係を決め込み、イエス様が排斥されることに反対しない時点で、他の住民と同じでした。それ故に、彼女たちにもまた、恐ろしい滅びの日が、他の住民と同様に下るのです。無関係を決め込んでも、滅びの時は必ずやってきます。だから、むしろ自分と子供の葬儀を準備するべきだと、イエス様は言われたのです。
イエス様のように、何の罪もない完全な人間、即ち生木ですら、十字架のような苦しみに遭うというのに、罪を抱えた枯れ木である私たちには、どのような恐ろしい災いが下るのでしょうか。この災いから逃れる為にはどうしたら良いのでしょうか。ゴルゴダへ向かう十字架の道で唯一、災いから免れ得ることが出来るのは、イエス様の後を、十字架を背負って歩いているクレネ人シモンだけでした。自身も十字架を背負い、イエス様の後に従っていくとき、私たちはただ罪の罰を逃れるだけでなく、私たちを愛する神様との、いのちの交わりの中に入れて頂くことが出来るのです。私たちは、罪を抱えた枯れ木ではなく、罪から解放されて活き活きと成長する生木として、人生を歩むことができます。自身が罪びとであると認め、悔い改めてイエス様を信じること。永遠のいのちに入る決断をすることが、今、求められているのです。
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