『成就したことを信じる』
聖書箇所:ルカの福音書24章1〜11節
中心聖句:『彼女たちはイエスのことばを思い出した。』(ルカの福音書24章8節)
2025年4月20(日) イースター召天した人との合同記念礼拝説教要旨
イースター、おめでとうございます! イエス様は、私たちの罪を全て清算された後、このイースターの日の朝に復活されて永遠のいのちが頂けるようにしてくださいました。その証拠として、イエス様は誰よりも早く、罪が贖われ、永遠のいのちに預かった人間の初穂として復活されたのです。これは、イエス様ご自身が、故郷のガリラヤで弟子たちに教えておられた時から常々言われていたことでした。しかし、実際に比喩ではなく、本当にイエス様の予告が現実のものとなった時、これに気づいて信じることができた人は、非常に少なかったのです。
「永遠のいのちが与えられる」、「私たちが終わりの日に復活する」と言われて、それを信じることが出来る人はどのぐらいいるのでしょうか。聖書は、「この天地を創造され、今も統べ治められている天の父なる神様は実在し、生きておられ、必ず聖書に書かれている御言葉は成就する」と宣言しています。しかし、現代の私たちが、この宣言をそのまま信じて受け入れることは難しいことでしょう。それは、現代に限らず、2000年前の人々とて同じことでした。
マグダラのマリア、ヨハンナ、十二弟子ヤコブとヨハネの母マリアの三人は、早朝にイエス様のお墓へ出かけてみたところ、お墓が空っぽになっているのを目撃しました。それを見た彼女たちは、まず途方に暮れたと5節に書かれています。何故なら、かねてより聞いていた御言葉が本当に実現するなどとは、夢にも思っていなかったからです。少なくとも、その可能性を視野に入れることすら、彼女たちには出来ませんでした。しかし、天の御使いが現れると、少し事情が変わります。何故なら、その御使いたちが、彼女たちに向けて、「人の子は必ず罪びとたちの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえると言われたでしょう。」と、イエス様の言葉を再び告げて、その御言葉が実現した可能性を提示してくれたからです。
彼女たちは、御使いの言葉を聞いた時、その御言葉を「思い出し」ました。「思い出す」という言葉は、聖書の中では常に、ただ思い出すだけでなく、積極的な応答を伴う用い方をされます。神様がイスラエルの民を「思い出された」時、民が苦しみから解放されたり、共に十字架に掛かった罪びとを、イエス様が御国で「思い出される」時、彼がイエス様と共にパラダイスに居るようにされたりなど、常にその態度が前向きな時に用いられるのです。同じく彼女たちも、目の前の空の墓を見、イエス様の御言葉を「思い出して」、イエス様の復活を直ぐに信じ、他の弟子たちに知らせにいきました。勿論、復活したイエス様に出会い、その事実確認をした訳ではありませんが、それでも彼女たちは、イエス様が復活したことを素直に受け入れ、信じたのです。そして、その応答が正しかったことをお見せになられる為、イエス様は幾度も、信じた弟子や彼女たちの前に現れ、御自身の復活の証拠を見せられたのです。
しかし、そのような大きな御業が起こっても、他の弟子がそうであったように、それらは「たわごと」に聞こえてしまうかもしれません。信仰は、神様をどの程度信用しているかを差す言葉です。私たちが神様を信用できていないなら、御言葉の実現も気づかず通り過ぎてしまうことでしょう。しかし、それでは私たちはいつまでも、古い人生、今の何も変わらない古い信仰のままです。12節でペテロが立ち上がって走ったように、もしそれが本当であるのならば信じたい、いや信じるのだと私たちが決断することが出来た時、神様もまた、その決断に応答して、大きな御業を起こして下さるのです。神様の御業は、私たちが信じる為ではなく、信じる決断をしたことが正しかったことを証明する為にこそ起こされます。十字架を信じる決断をした全ての人には、朽ちることの無い永遠のいのちと言う応答が、与えられるのです。
前ページ
次ページ
〒453-0063
愛知県名古屋市中村区東宿町2-102
TEL/FAX:052-411-5367
受付時間:午前11時から午後6時まで
(月・金休業、礼拝中は応対できません)
アクセス
地下鉄東山線「中村公園前駅」から徒歩20分
バス停「豊国神社前」から徒歩5分
バス停「東宿町」から徒歩2分
駐車場は5台分程用意があります。
隣接の立松接骨院駐車場もご使用頂けます。
(日曜日のみ)