『何故疑いを抱くのか』
聖書箇所:ルカの福音書24章36〜43節
中心聖句:『そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。 』(ルカの福音書24章38節) 2025年4月27(日) 主日礼拝説教要旨
イースターから一週間過ぎて、私たちは、自らに与えられた福音の約束を再確認する時が与えられています。私たちは、罪の罰の身代わりとして十字架に掛かり、三日目に復活して下さったイエス様の贖いの恩恵を受け、永遠のいのちを得ることが出来る恵みに預かっています。しかし、その一方で、私たちは大きな恵みを目の前にしても、これを信じることが出来ません。その恵みが、私たちの受け入れやすい妥当な形ではなく、あまりにも良いものだからです。
イースターの日の夜、三人の女性や、エマオへの道で復活のイエス様を目撃した二人の弟子の報せを受けて、十二弟子を始めとして、多くの人はイエス様が復活したという事実を知らされました。しかし、ペテロ以外の弟子たちの多くは、それが「たわごと」だと思い受け入れることが出来ませんでした。すると、彼らの真ん中に突如イエス様が出現し、挨拶なさったのです。イエス様が復活された事実は、謎に思われた十字架の死の意味の「種明かし」であり、弟子たちにとっては、あまりにも受け入れがたい「吉報」でした。まだ、「イエス様は、私たちの罪の罰の身代わりとして死なれたのだ」と、後日談的に天使によって御告げが齎された方が、弟子たちにとっては受け入れやすい形の種明かしだったように思われます。しかし、神様も、イエス様も、そのような配慮などまるでせずに、復活した神の御子の姿を、ダイレクトに見せつけるという形で、これを提示されたのです。これこそが、神様の取られる手法なのです。
私たちも、時折、受け入れ難い目の前の事実より、受け入れ易い理詰めの論理に依り頼んでしまうことがあるように思います。例えば、「信じれば罪が全て赦される」という事実より、「罪が赦される為には貴方の努力が必要である」という言葉の方が受け入れやすいのではないでしょうか。しかし、神様はそんな私たちの「受け入れやすさ」などに配慮はなさいません。常に圧倒的な赦しと救い、そして恵みの吉報をもって、これを受け入れるか問われるのです。
そのような吉報が目の前に提示されれば、私たちとて、勿論それを信じて、受け入れたいと考えるでしょう。しかし、たとえにわかに信じたとしても、余りにも信じた福音の話が「うますぎる」ように思えて、不安になってしまいます。それ故にイエス様は、弟子たちに自らの肉体を見せて、自身が幽霊ではなく、ちゃんと生きて存在していることを知らされたように、私たちにもまた、各々が理解できる形で、見たものが確かなものであることを、その御業を通して提示してくださるのです。神様は、私たちが信じる為にではなく、信じたことが正しかったことを確認する為に御業を現わして下さいます。しかし、そのような数々の不思議な「証明」が目の前に現れても、私たちは「喜びのあまりまだ信じられない」ことを繰り返します。何故なら、信じることを自発的に「決断」するまでは、何を見ても信じることが出来ない特性を、私たちが持っているからです。これこそが、私たちの心の内にある罪なのです。しかし、そのような私たちの罪に対しても、イエス様は、弟子たちの前で焼いた魚を食されたように、何度も何度も、御業を表してつきあって下さいます。そして私たちに「どうして心に疑いを抱くのですか」と、根気よく何度も尋ねられて、私たちの心が決断するのを待って下さるのです。
私たちがもし、罪の赦しと永遠のいのちを手に入れたいと願うのなら、まずは目の前の福音を「信じる」決断をしなければなりません。神様の福音の約束が圧倒的に良すぎるので、決して私たちはこれを自然に受け入れられないからです。「にわかには信じられないが、でもあえて私は信じる決断をしよう」と告白する中に、私たちが永遠のいのちを手に入れる鍵があるのです。イエス様の復活は示されました、私たちは、これを受け入れる決断ができるでしょうか。
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