『父親の姿を見る』
聖書箇所:マルコの福音書5章21-24節、35-43節
中心聖句:『イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」』(マルコの福音書5章36節)
2023年6月18日(日)父の日伝道礼拝説教完全原稿
本日は、父の日です。普段、私たちの為に頑張ってくれているお父さんや、教会で奉仕して下さっている壮年の方に感謝しましょう。……とはいっても、現代社会は多様性を極めていますから、男親を尊敬出来ないと言う人もいるかもしれません。しかし、どの家庭であったとしても、「父親役」を引き受け、日々労苦してくれる人は、必ず存在するのではないでしょうか。
私たちには「父親役」となってくれるひとが必要です。生活の糧を獲得し、子を戒め、家族を導いてくれる存在は、必要不可欠だからです。必ずしも、男親が、その役を引き受ける必要はありませんが、私たちが生きて大人になる為には、必ず父親役の存在が必要なのです。
しかし、そのような「父親役」を引き受けている人が、どのような思いで子供に向き合っているかを知ることの出来る機会は希です。特に父親は「反発されてなんぼ」といった所もありますから、近寄りがたく思われるのが仕方ない所もあるでしょう。しかし、その役を引き受け、覚悟をもって子供に向き合う「父」の姿を、私たちは決して見落とすべきではありません。
本日開いた聖書の箇所には、ヤイロという名前の父親が出てきます。彼がどのような父親であったかについては、書かれていないので分かりません。しかし、ヤイロは、自分の娘を救いたいと言う一心でイエス様を信じ、自分の全てをかけて、神様にすがる姿勢を守り通しました。彼は、「イエス様こそ救い主だ」と信じ、「治してほしい」とは願わず、ただ、「手を置いてやって欲しい」とだけ願って、会堂司という高い自分の身分も省みず、ただ娘の為に、恥も外聞も無く、イエス様に縋りました。自身の欲や動揺、後ろ向きな感情に決して負けず、父親としてその信仰を、娘の為に守り通したのです。 彼は、イエス様が寄り道をしても、また、その為に娘が死んだと報せを受けても、決して文句を言いませんでした。実際、その心痛は計り知れないものだったと思いますが、それでもイエス様を信じたのです。イエス様は、そのようなヤイロを見られて「恐れないで、ただ信じていなさい」と言われ、彼の信仰を肯定されました。その結果、娘を救いたいと願うヤイロの信仰に神様が応答され、彼の娘は蘇ったのです。
このような意外とも思える父親の姿を、娘は見ることがありませんでした。死んでいたからなのですが、恐らく生きていたとしても、ヤイロは娘にそのような姿を見せようとはしなかったでしょう。親は自分の労苦を子供には見せたがらないからです。親の苦悩なんて、子ども側には知る由もありません。しかし、だからと言って、そのような親の悩み、労する姿を見る努力を、子ども側も放棄してはいけないのではないでしょうか。 現代は、努力をしなくても、恣意的に選別された情報が目に飛び込んでくる時代です。そのような時代だからこそ、本当に必要な情報は、自分から決断しなければ、見ることが出来ません。私たちが、「見る」と決断するだけで、自分の知らなかった、意外な親の姿を見る事も出来るのではないでしょうか。
私たちは、自身の親の姿を正しく見ようと決断するとき、その親を備えて下さった神様にも、目を向けることが出来るようになります。この天地を造られた父なる神様は、私たちの事を愛して、私たちが自身の罪から救われるようにと、独り子であるイエス様を十字架に掛けて下さいました。しかし、私たちは、受け身ではこの方について知ることが出来ません。父なる神様のことも、イエス様の十字架のことも、福音も、受け身で聞いているだけでは、「愚かな話」だと投げ捨ててしまうからです。だからこそ、私たちは、耳に届く福音を「聞く」と決断して耳を傾けるべきです。その時に、私たちは思わぬ真理と、救いの恵みを手にできるのです。
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