『正しいと良いの違い』
聖書箇所:コリント人への手紙第一8章7〜13節
中心聖句:『兄弟をつまずかせないために、私は今後、決して肉を食べません。』(コリント人への手紙第一8章13節)
2023年6月25日(日)主日礼拝説教完全原稿
6節までに様々な前提を確認したパウロは、いよいよコリント教会の信徒達に対し、偶像に献げた肉を食べることについての是非に回答しようとします。まず大前提として、人間が創作した偶像の神はこの世に存在しませんから、それに献げた肉を食べたところで私たちの身体が穢れることはありえませんし、また、どのような肉でも、天地の全ては、主なる神様のものなのですから、私たちはそれらの全てを、感謝して食べる権利を持っていることは確かです。しかし、その権利を行使することが、常に神様の前で「良い」と評価される訳ではありません。
……というのは、私たちクリスチャンは、キリストの十字架の血潮によって買い取られた、神の奴隷だからです(7章22節)。少なくとも、キリストを信じて洗礼を受けたならば、私たちは自分の意思でキリストの所有物となっています。ならば私たちは、自分の行動が「正しい」かどうか以上に(勿論正しいことは非常に大切なのですが)、それが主人であるキリストに評価されるものであるかについて注目しなければならないのではないでしょうか。行動自体が間違ってないとしても、それで主人の不興を買うなら、それは本末転倒だからです。
昔から、「損して得取れ」と言われるように、例え一時的に損をしても、結果的にそれが上役や周囲からの良い評価につながり、自分の利益になることもあります。同じようにパウロも、「権利があるかどうか、またそれを用いるのが正当であるかどうかよりも、主イエスから不評を買い、罪を犯すことを避ける方が大切である」と、コリント信徒達に勧めているのです。
パウロが、7〜10節で、手紙に書いているのは、正にそのようなことなのです。偶像に献げた肉を食べることに心を痛める兄姉達を馬鹿にして、これ見よがしに偶像の宮で礼拝に参加し、その肉を食べる様子を見せつけて、弱い人々を躓かせようとする人間が大勢いたのです。そのような暴挙を弱い人々が見れば、それによって心が更に傷つき教会から去るようなことにならないでしょうか。また、偶像礼拝に参加する事は良い事なのだと勘違いして、教会にも、偶像の宮にも出かけるようになり、結果、救いを取り逃すような事にならないでしょうか。
まだ弱く、信仰に入ったばかりの兄姉達も、天の父なる神様に愛されて招かれた一人びとりです。そして他でもない私たちの主イエス・キリストは、この人々の為にも十字架に架かってくださったのですから、それを台無しにするような真似が、良い評価につながろうはずもありません。むしろ、「救済の計画の邪魔をする反逆者である」として、弱い人々を躓かせた人は、その激しい怒りを、他でもない自分の主人でる神様から受ける羽目になるのです。天の父なる神様もまた、そのような事をする者には血の責任を問うと宣言されていますし(エゼキエル書33章6節)、イエス様もまた、「石臼を首にかけて海に沈められた方が、まだその人のためになる」とすら言われていいるのです(マタイ18章6節)。それ程までに恐ろしい結果を招き寄せてまで、自身の些細な「自由と権利」を行使することは、果たして賢い選択なのでしょうか。
私たちは、「自分にとっての正しい」よりも、イエス様にとっての「良い」を求め続けるべきです。パウロが、13節で、他の兄姉を躓かせない為に、肉を食べることを避けると宣言したように、神様の御心に適う「良い」ことを行う為には、自分の自由や権利を返上し、不利益を被るような選択を取らなければならない時もあるでしょう。しかし、神様は、そのように歩む人が被った損失以上の恵みをもって、十全に報いて下さいます。恐れずに神様のことを信頼し、自分にとっての「正しい」ではなく、神様にとっての「良い」を追い求めていきましょう。
耳を傾けるべきです。その時に、私たちは思わぬ真理と、救いの恵みを手にできるのです。
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