『価値あるものを献げる』
聖書箇所:コリント人への手紙第一9章1〜12節
中心聖句:『それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。むしろ、キリストの福音に対し何の妨げにもならないように、すべてのことを耐え忍んでいます。』(コリント人への手紙第一9章12節)
2023年7月2日(日)主日聖餐礼拝説教完全原稿
9章からパウロは、自身が使徒の特権を行使していない件について話し始めます。何故なら、そのことを疑問に思ってパウロを批判する人々が、コリント教会の中に少なからず居たからです。当時のギリシャでは、価値のある講義には、相応の対価が支払われるべきであると考えられていましたから、「福音の対価をパウロが受け取らないのは、福音の話に価値が無かったからか、もしくは彼が、本物の使徒ではないので、対価を受け取るのが後ろ暗いかのどちらかであろう」と、一部の人々は考え、パウロを批判したのです。彼は何故、使徒の特権を用いなかったのでしょうか。パウロは使徒ではなく、伝えた福音にも価値がなかったのでしょうか。
まず、「福音に価値が無い」などという可能性は、キリストに在って救われた人なら、誰でも真っ先に排除するはずです。そうでなければ、罪からの解放にも、救いにも、福音の約束にも、一切の価値がなくなってしまうからです。福音に価値があるからこそ、宣教に従事する人々、特に使徒には、大きな特権が与えられていたのです。使徒には、その生活を教会によって賄われるだけでなく、伝道旅行の費用も、伴って出かける家族の分も含めて、全て教会から援助を受ける特権がありました。しかし、そのような特権が与えられるのは、教会以外の場所でも当たり前のことのはずです。徴兵された兵隊は、衣食住や装備弾薬が保証され、羊飼いのような雇われの人間にも、羊の乳のように賄いが出されます。自分の土地で農業を営む人々には、作物の全てを所有する特権があります。働く人々が、それに専念できるように、各々特権が与えられていることは、社会通念上当たり前のことなのです。聖書ですら、申命記25章4節で、その事を規定しています。「牛の口籠」の規定は、パウロが教える通り、人間について定めた律法の中に出てくるものです。全ての働き人には、仕事の中での特権があるのです。
ならば、パウロがその特権を敢えて用いなかったのは、彼が、使徒ではなかったからでしょうか。それもありえません。何故なら、コリント教会の人々は、皆パウロの宣教の働きによって、救われたからです。パウロが使徒でなかったなら、教会全体の救いが全て偽物になってしまいます。少なくともコリント教会信徒にとって、パウロは紛れも無く使徒でした。ならば、使徒パウロが特権を用いなかったのは、その特権が彼にとって使う程の価値も無いものだったからでしょうか。それも違います。パウロが使徒の特権を用いなかったのは、コリントの街の文化や事情、そして、コリント教会の現状を鑑みて、使徒の権利を返上し、無償で働くことが、「主の御心に適うことである」と判断したからです。だから、「キリストの福音に対し、何の妨げにもならないように」と、パウロは全ての特権を返上しました。彼は、この特権に価値を見出さないどころか、むしろその価値が大きいものであると評価したが故に、「これを献げた時、神様から得られる評価はとても大きい物になる」と、望みをもってこれを献げたのです。
価値あるものを献げる時、神様はこれを大いに評価してくださいます。私たちもまた、神様からの評価を追い求めるが故に、これまで自分の為に用いることが出来たはずの貴重な時間や金銭を献げ続けてきたはずです。私たちの献げた奉仕や献金は、無償で行われるのが「当たり前」程度の、価値の無いものだったでしょうか。そうではないはずです。私たちは、自身が今まで献げ、これからも献げていく供えものの価値を、十分認めなければなりません。価値があると認めて献げる時、神様もこれを喜ばれ、それ以上の恵みをもって報いてくださいます。だからためらうことなく神様の前に、自身の価値あるものを献げていこうではありませんか。
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