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主日礼拝説教(4月16日分)
聖書箇所:ルカ福音書24章36〜49節

1.説教音声

2.説教要旨着情報

『成就を待ち望む』
聖書箇所:ルカによる福音書24章36〜49節
中心聖句:『あなたがたは、これらのことの証人となります』(ルカの福音書24章48節) 
2023年4月16日(日) 伝道礼拝礼拝説教

 エマオへ向かう弟子達に、イエス様が御言葉の大切さを教えられたように、私たちにとって、聖書の御言葉は何より大切なものです。何故なら、御言葉は、成就することによって私たちに救いと希望もたらしてくれるくれるものとなるからです。

36-40節:イエス様は、イースターの日の夕方に、弟子達の前に姿を現されました。弟子達は幽霊と怯えましたが、イエス様は確かに復活した肉体をもって、弟子達の前に現れて、十字架に架かった時に受けた槍の傷跡と、手や足の傷跡をお見せになり、御自身の復活が事実である事を証明されました。
41-43節:しかも、その上で、弟子達の前で食事すらも行って見せました。最早これを見ては、誰もイエス様の復活を疑う事など出来ませんでした。

44-47a節:何故、イエス様はそのようなことを行われたのでしょうか。それは、聖書に書かれている御言葉が、全て書いてある通りに成就することを、イエス様御自身が証明する必要があったからです。イエス様が体験された全ての事、即ち、十字架の上で苦しみを受けて死に(イザヤ53章)、三日目に復活され(ホセア6章1-3節)、それによって、多くの罪びとに、罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマが宣べ伝えられるようになり、新しい霊を得るようになる(エゼキエル18章)ことは、全て予め書かれていた聖書の御言葉が成就した結果であったのです。

47b-49節:だから何だと言うのでしょうか。実はこれは一番大切なことです。何故なら私たちの救いに関わることだからです。もし、聖書の御言葉が、書かれている通りに実現しないならば、一体誰が「罪が赦される」などと聞いて信じることが出来るでしょうか。また、永遠の命が与えられると聞いて、真に受けることができるでしょうか。しかし、事実、聖書の御言葉の中で、最も成就しないだろうと思われていた、「三日目に死人が復活する」という予告が、確かに成就したのです。最も難しい御言葉を成就させる力のある神が、他の御言葉を成就させないということがあるでしょうか。

 私たちは、キリストの復活にまつわる御言葉が成就したことを知っているので、それを保証として、罪の赦しと、永遠の命を信じ、受け入れる事が出来ます。イエス様の復活は、私たちの救いの保証そのものなのです。イエス様は確かに私たちの罪を赦し、お救い下さいます。イエス様を信じ、救いと福音の成就を待ち望みましょう。


子供用メッセージカード 聖書箇所(せいしょかしょ)「ルカ24:36〜49
中心聖句:『あなたがたは、これらのことの証人となります』(ルカ24:48節) 4月16日(日)

今日のポイント!
※聖書(せいしょ)のむずかしいことばやわからないことは、おとうさんおかあさんではなく、日曜日に教会学校(きょうかいがっこう)で先生(せんせい)にききましょう。
※成就(じょうじゅ)とは、かいてあることが、ほんとうにそのとおりになることです。

1.イエス様(さま)は、お弟子(でし)さんたちの前(まえ)にあらわれましたが、おばけではありませんでした。イエス様(さま)は、復活(ふっかつ)した身体(からだ)を見(み)せることで、復活(ふっかつ)したことをの証明(しょうめい)されました。

2.イエス様(さま)の十字架(じゅうか)の死(し)も、また、三日目(みっかめ)に復活(ふっかつ)されることも、全(すべ)ては、旧約聖書(きゅうやくせいしょ)にあらかじめ書(か)かれていたことでした。その中(なか)で、いちばん難(むずか)しい、復活(ふっかつ)のみことばが成就(じょうじゅ)したことを知(し)らせることで、イエス様(さま)は、聖書(せいしょ)のみことばは、全(すべ)て成就(じょうじゅ)することの、証拠(しょうこ)とされたのです。

3.だから、私(わたし)たちは、イエス様(さま)を信(しん)じれば、絶対(ぜったい)に罪(つみ)がゆるされて、救(すく)われて、永遠(えいえん)のいのちをいただくことができると、しんじることができるのです。

〇まとめ
 聖書(せいしょ)のみことばはかならず実現(じつげん)します。だから、みことばを信(しん)じて、おぼえておくことはとても大切(たいせつ)です。まだ、実現(じつげん)していないみことばはたくさんありますが、やがて、そのすべては成就(じょうじゅ)します。だから自信(じしん)をもって、イエス様(さま)を信(しん)じましょう。

☆考えてみよう
 →イエス様(さま)は、なぜよみがえる必要(ひつよう)があったのでしょうか。

☆やってみよう(チャレンジ)
 →イエス様(さま)を信(しんじた)人(ひと)に、これから成就(じょうじゅ)する、みことばにかかれた福音(ふくいん)の3つの約束(やくそく)を覚(おぼ)えよう。
 (1.あたらしいからだ 2.えいえんのいのち 3.かみさまのこどものみぶん)



着情報3.完全原稿

『成就を待ち望む』
聖書箇所:ルカによる福音書24章36〜49節
中心聖句:『あなたがたは、これらのことの証人となります』(ルカの福音書24章48節) 
2023年4月16日(日) 伝道礼拝礼拝説教完全原稿

 イースターから一週間が過ぎました。本日は、伝道礼拝です。
 今しばらく、イースターの朝から弟子達へ足跡を残された、イエス様についてお話をさせて頂きたいと思います。
 イエス様は、イースターの朝から、天に昇られて姿が見えなくなるまで、多くの弟子達の前に姿をお見せになられて、御自分が復活したことをお知らせになりました。

 私たちは、この様にイエス様が姿をお見せになられたという記録を、聖書を通して読んでいるので、イエス様が復活されたちう事実を知る事が出来ています。
 しかし、実際にイエス様の復活が本当に必要であったのか、また、何故それを弟子達に執拗にお知らせになろうとしたのか、聖書の中には直接書かれていません。
 
 私自身もそうだったのですが、人間が復活するなんて話は、何時の時代、誰に対して行っても受け入れられない者です。
 子供時代、牧師の息子として、「友達を教会に誘ってこい」と言われていた私は、学校でいつも困り果てていました。「イエス様が復活した」などという話を誰も信じてくれないからです。
『「イエス様が私たちの罪の罰の身代わりになって死んでくださった」というだけなら信じる人もたくさんいるのに、復活したなんて話を付け加えるから、誰も信じないし教会にも来ないんだよ』と、子供心にそのように考えて居たのをよく覚えています。

 人間は、キリストが、罪の罰の身代わりとなって十字架に架かって死んでくださった、という御言葉自体は受け入れられても、三日目に死人のうちから復活されたという御言葉は受け入れられないものです。
 何故なら、私たちは「どうあがいても、完全に死んだ人間が復活することは不可能である」ことを良く知っているからであります。

 一日程度ならば、蘇ることもあります。しかし、それは単純に息を吹き返しただけであって、復活した訳ではありません。まして、三日たっても蘇生せず、完全に死んでいる状態の人間を蘇らせることなど、現代の医学でも不可能なことではないでしょうか。

 そうであるにも関わらず、教会は、初代使徒の時代から、「イエス様が復活した」という事実を、愚直に宣べ伝え続けています。それは2000年経っても、一切変わることがありません。

 何故でしょうか。それは、このイエス様の復活が無ければ、私たちの心の内に、罪の赦しも、救いも、永遠の命も一切が無くなってしまうことになるからです。
 何故、それほど、イエス様が復活したという事実は私たちにとって重要なのでしょうか。


 36〜37節で、「これらのことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。彼らはおびえて震え上がり、幽霊を見ているのだと思った。」と書かれている通り、弟子達の真ん中に突然現れました。弟子達は幽霊を見ていると思って怯えましたが、それは確かに生きたイエス様でした。

 その証拠にイエス様は、38〜39節で、「そこで、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを抱くのですか。わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります。」こう言って、イエスは彼らに手と足を見せられた。」と書かれている通り、自分が幽霊でないことをしっかりと証明されたのです。

 しかも、イエス様は弟子達が、御自分の復活について不思議がっているのを見られると、更に41〜43節で「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっていたので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で召し上がった。」と書かれている通り、実際食べ物まで食べて、自分が生きていることを確かにお見せになられたのです。

 イエス様は、食べ物を食べて見せてまでして、自分が復活したことが事実であると、執拗に弟子達に対して証明しようとされました。何故、イエス様は弟子達が、自分が復活した事を信じることにこだわられたのでしょうか。

 それは、続けてイエス様ご本人が、44〜48節で、「そしてイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたと一緒にいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」それからイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」と、説明になられています。即ち、イエス様が自らの復活の事実を弟子達に執拗に証明しようとされたのは、旧約聖書の御言葉が、全て成就するということを、弟子達の前で明らかにされる為でした。

 成就とは、聖書の御言葉が、書いてある通りに実現することをさします。

 実は、イエス様がエルサレムで受けられたあらゆること、即ち、十字架の上で苦しみを受けて死に(イザヤ53章)、三日目に復活され(ホセア6章1-3節)、それによって、多くの罪びとに、罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマが宣べ伝えられるようになり、新しい霊を得るようになる(エゼキエル18章)ことは、全て、旧約聖書の御言葉が成就した結果、起こったものであったことを、イエス様は弟子達に対してお伝えになられたのです。

 何故、聖書の御言葉が成就することが、大切なことなのでしょうか。
 それは、私たちが信じている罪の赦しも、永遠の命を頂ける福音の約束も、全て聖書の御言葉によって、予告されていることだからです。
 私たちは、この世の終わりに、自らの罪によって裁かれることなく、永遠の命と新しい身体、神の子としての身分が与えられると、聖書の御言葉によってあらかじめ約束されています。
 しかし、その約束が実現することを、私たちは何によって確信すれば良いのでしょうか。

 私たちが何かを信じるには、保証が必要です。確かにそうなるという証がなければ、私たちの救いに対する思いは、ただの信心であり、宗教となってしまいます。
 当たるも八卦、当たらぬも八卦で、誰が罪の赦しや、永遠の命といった話を信じる事ができるのでしょうか。

 しかし、事実、キリストによる十字架の救いは、当たるのか当たらないのか判らない「宗教」ではありません。何故なら、イエス様は「御言葉は必ず全て成就する」と宣言され、さらにその証拠として、最も実現が難しい「三日目に死人の中からよみがえる」という聖書の御言葉を成就されたのです。

 最も難しい聖書の御言葉を、正に書いてある通りに実現させる力のある神様が、他の聖書の御言葉を実現させないなどということがあるでしょうか。
 まして、実現させる力が無いなどということがあるでしょうか。
 だから、私たちは、自身の罪の赦しも、永遠の命などの福音の約束も、まだその実現を目で見ていないにも関わらず、既に実現したものとして、信じ続けることが出来るのです。

 私たちの救いには保証が必要です。保証が無ければ、どれだけ強く念じて信じたとしても、その信仰は愚かなものへと変わってしまうことでしょう。
 しかし、事実、イエス様は最も難しい御言葉を成就されました。
 私たちは500人以上の兄弟姉妹たちによって、確かにキリストが復活し、その姿をお見せになったという証言を聞いて、知っています。
 だからこそ、44節の「わたしについて、モーセの律法と預言者たちの書と詩篇に書いてあることは、すべて成就しなければなりません。」という、イエス様の御言葉が実現することを、私たちは確かな心をもって信じ、その成就を待ち望んでいるのです。

 すでに、49節の、「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。」という御言葉は、信じた私たちに与えられる聖霊の実在によって、成就していることが明らかになっています。
 あとは、イエス様の再臨の予告、この世の終わりに私たちの罪が赦され、私たちが裁かれないという予告、そして永遠の命、新しい身体、そして神の子としての身分が与えられ、新しくされた世界で神様と共に生きることができるという予告の実現を待つばかりです。

 私たちクリスチャンは、この予告を事実であると信じ、その成就の時を今か今かと待ち望んでいます。しかも、そこには確証があるのです。これを聞いたあなた方は、どうでしょうか。
 誰でも、自分が罪を犯したことを神の前に認め、悔い改めて、自分が罪びとであると告白し、イエス様の十字架の贖いと救いを信じるならば、立ちどころに全ての罪が赦されて、神の霊によって新たな霊と心を与えられてキリストと共に生きる事が出来るようになります。
 だから恐れずにイエス様を信じて、今日からも実現する、聖霊を心に受けましょう。
 そして、共に御言葉の成就を信じて、共にイエス様の再臨を待ち望むものとして、活き活きとして過ごしていこうではありませんか。


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 (日曜日のみ)