『滅びに至る罪』
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章7〜11節
中心聖句:『これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。』(コリント人への手紙第一10章11節)
2023年8月13日(日)主日礼拝説教完全原稿
十字架の救いを信じ、洗礼を受けて置きながら、自分でその救いを投げ捨てるような結果になる時、私たちは「失格者」と呼ばれてしまいます。そのような結果を引き寄せるのが、私たちが避けるべき「滅びに至る罪」であることを、パウロは7~11節で、コリントの人々へ警告します。そのような事にならない為、私たちはどのような罪から離れるべきなのでしょうか。
一つ目は、「偶像礼拝の罪」であると、パウロは教えています。「民は座っては食べたりのんだりし、立っては戯れた」と出エジプト記の32章6節で引用されている通り、民は、自分達の思うように神様の形を決めつけようとして、天地万物を創造された父なる神様を「見てわかりやすい」金の子牛の像で表し、貶めました。神様を、自分にとって分かりやすいものに作り替え、理解した気になって思い上がり、神様をコントロールしようとしたのです。それは神様を自分より下に置き、自分自身が神になろうとする偶像礼拝に他なりません。神様は、人間の知恵では理解することのできない偉大な方です。このことを遜って認めない限り、私たちはいつか、神様そのものを軽んじるようになります。そして、福音を自分の手で投げ捨てるのです。
二つ目は、「淫らなことをおこなう罪」です。民数記25章全体では、モアブの娘たちの誘惑によって、淫らな娯楽にのめり込んだ人々が、神の陣営で白昼堂々不品行に励む程に堕落する様子が記されています。「淫らなこと」に限らず、私たちの心の内で、娯楽は大きな割合を占めるものです。これにのめり込めばのめり込む程、私たちは物事の区切りが付けられないようになり、弁えるべき場で、正しい行いが出来なくなっていきます。礼拝中にスマホを弄ったり、仕事中にやりかけの娯楽が気になって上の空になったりすることは珍しくありません。しかし、神様より娯楽が優先され、聖務が疎かになるならば、それは最早偶像礼拝です。私たちは神様に背を向け「娯楽に興じる自分」を礼拝し、自分の手で福音を投げ捨ててしまうのです。
三つ目は、「キリストを試みる罪」です。ここでは、民数記21章4~9節の火の蛇の事件が引用されています。神様を試みるとは、「どのぐらいまでなら神様に我儘を言っても良いか確かめる」行為を指します。それは即ち、神様の約束を実現して下さるイエス様を、自分の思い通りに制御しようという試みに外なりません。神を自分の思い通りにしようという考えは、やはり神様を退けて、福音を投げ捨て、自分を神として礼拝する偶像崇拝に外ならないのです。
四つ目は、「不平を言う罪」です。これは、民数記11章全体で、モーセとアロンを選ばれた神様に不平を言って裁かれた、レビ人コラ達の事件などを始めとして、聖書の多くの箇所で見られるイスラエルの常習の罪です。これらの罪の本質は、「自分の方が神より正しい」と、思い上がるところにあります。これもまた、自身を神として礼拝する、偶像礼拝なのです。
結局のところ、私たちを失格者にする「滅びに至る罪」は、自分を神として礼拝する偶像礼拝によって引き起こされるものなのです。神様より自分を上に置く時、私たちは神様との良い関係を失い、自分で救いの約束を投げ捨ててしまいます。神様は、私たちより知恵ある方であり、常に最善を為して下さる方です。もし、私たちが思い上がらず、謙遜に御言葉に従って応答していくならば、神様は悪いことも、全て善いことに変えてくださり、私たちを導いてくださるのです。ですから、神様を恐れ、信頼することを忘れず、遜ってお仕えしていきましょう。
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