『暗闇からの転換』
聖書箇所:詩編88篇
中心聖句:『歌。コラ人の賛歌。指揮者のために。マハラテ・レアノテの調べにのせて。エズラフ人ヘマンのマスキール。』(詩編88篇0節)
2023年8月20日(日)主日伝道礼拝説教完全原稿
今日の箇所は、神に助けを求めても何一つ解決が無いという点で、詩編で最も悲しい詩の一つと言えるかもしれません。しかし88篇は、詩人本人によって「賛歌」と「マスキール(教訓の歌)」に指定されています。この救いの無い内容の何処に、賛美や教訓があるのでしょうか。
詩人は88篇全体を通して、自らの苦境を神様に訴え続けています。詩人はこの時、酷い病気にかかっており、その惨状は見るに堪えない程であったようです。彼は、親友から見捨てられ、暗い部屋の中に隔離されていました。9節の「目の衰え」は、生命力の低下の詩的表現です。彼は、日に日に死が近づくのを実感しながら、天地を創られた父なる神様に助けを求め祈り続けていたのです。彼は一貫して、自身が孤独である事を神様に訴え、呻いていたのです。時代に関係なく、孤独は死に至る病です。闘病生活も、励ましてくれる近しい人が居るからこそ耐えられるのであって、他の人から見放され、閉じ込められるように隔離された生活では、彼に絶望は常に付きまとったと思われます。しかし、詩人はこの孤独の中にこそ、教訓(マスキール)があったのだと神様を賛美して88篇を綴りました。何故なら、彼は自分が独りで苦しんでいると勘違いしていましたが、実際には本当は孤独で無かったことを後になってから気づいたからです。彼は、苦しみながら、常に神様と対話していました。本来なら病床で愚痴を呟いても、それは独り言に過ぎないのですが、父なる神様が常にそこに居て、詩人の呻く全ての声を聞き、共に悲しんでいて下さったからです。神様と共に歩む人には、死に至るその時まで、決して、本当の意味での孤独は訪れません。ここに、生ける神様と共に歩む人の大きな慰めがあるのだと、病が癒された後になってから、詩人は気づいたのでした。
また詩人は、私たちが受けた苦しみや悲しみすら用いて、神様が最高の良い御業を行って下さることを主張しています。実は、この詩人ヘマンは、病が癒された後に多くの子供を授かり、王直属の聖歌隊の長に抜擢されて、神殿で歌う者となり、更に神様の御声を取り次ぐ預言者として、輝かしい道を歩むようになったからです(T歴代誌25章1〜6節)。詩人は、病気で苦しんだ当時、全ての災いは神様が起こしているのだと勘違いしていましたが、後に、神様が、悪意によって悪い業を起されることは一切無いことを悟りました(ヤコブ1章12-17節)。苦しく、悲しい出来事は、この世に生きているなら誰にでも起こり得ることです。例えクリスチャンであっても、病気にかかることもあれば、交通事故や災害で死ぬことも当たり前に起こります。しかし神様は、そのような悪い出来事を用いて良い業を起こし、そのことを最善の出来事へと変えて下さいます。詩人の病気の苦しみの体験も、後に聖歌隊長と預言者の職務に余すことなく活かされました。それを悟り、かつ他の人に知らせたいと願ったからこそ、彼は、自身の恥を忍んでこの88篇を綴り、神様を賛美したのです。しかし、実際に私たちは、悪いことが起こればすぐに神様を疑い、何故と問いかけてしまいます。ここに人間の罪があるのです。
神様は、どのような時でも私たちの傍に居てくださり、苦しみや悲しみの場に居合わせ、それらを用いて最善の御業を行って下さいます。今、私たちが罪で苦しみ、悲しんでいるこの経験すらも、神様は、私たちの罪の罰の身代わりとなって死んでくださったイエス様の十字架の血潮によって、最高の賛美の糧へと変えて下さるのです。本来なら、孤独も災難も、ただの損害でしかありませんが、神様と共に歩む人は、それすらも喜びに変えられ、用いられます。ここに、神と共に生きる最高の強みと奥義があるのです。だから私たちも恐れずに、万事を善きに変えて下さる神様を信じて、今日からでも新しい道を共に歩み始めようではありませんか。
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