『耐えられる試練』
聖書箇所:コリント人への手紙第一10章12〜13節
中心聖句:『神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。』(コリント人への手紙第一10章13節)
2023年8月27日(日)主日礼拝説教完全原稿
パウロは長らく、「失格者」についての話題を取り上げ、11節までで解説を行ってきました。私たちは、自分意志で福音を投げ捨てる時、せっかく手に入れた永遠の命を失って「失格者」となります。そう聞けば「自分に限って、そんなことなど有り得ない」と思う人は大勢居られるかもしれません。しかしパウロは、そのような人こそ気を付けるように警告するのです。
私たちを失格者へと追い詰める滅びに至る罪は、「自分を神とする」偶像礼拝によって引き起こされると、既に7~11節で学びました。私たちは誰でも潜在的に、この天地を創られた父なる神様を退けて、自分が神になりたいと言う欲求を抱えながら生きています。最初の人のアダムとイヴですら、その欲求に負けて知恵の実を食べ、罪を犯しました。私たちは、誰もが神中心ではなく、自分中心の本性を心の内に抱えているので、根本的に神様の御言葉に従うことが出来ないのです。私たちは、「神ごときが、私の楽しみを邪魔するなどありえない」「神ごときに、私のお金を与えるのは勿体ない」「神ごときが、私の予定を狂わせるなどあってはならない」「神ごときの為に、何故私が働かねばならないのか」などという恐ろしい思いを内側に抱え、その形の表れとして神様へのあらゆる奉仕を怠ってしまいます。「いや、私はそんな恐ろしいことなど考えて居ない」と反論したくなるかもしれませんが、事実、私たちの不服従はそのような恐ろしい思いに根差しているのです。その恐ろしい思いは、最終的に「神ごときが、私を裁くなどありえない」という考えに至り、神様に背を向け、その交わりを拒絶して、手に入れた救いすらも投げ捨てて、自分自身を神にする元の信仰へと戻っていってしまうのです。
だからこそ、私たちは一歩間違えば、自分自身を神とする思いに支配されてしまうことに恐怖し、努々注意を怠ってはならないのです。使徒パウロですら、自身が例外でないことを知っていました。それ故、肉体を打ち叩いてでも服従させ、その恐ろしい思いが自分を支配しないように警戒していたのです。パウロのように、自分自身の本性を真に恐れる必要に気づいた時、私たちは神様の前で、本当の意味で謙遜になることが出来ます。しかし、いくら気を付けたところで、この思いは誘惑に駆られた時に再燃し、私たちの心を何度でも支配しようとします。私たちはこの恐ろしい思いから、どうやって逃れる事が出来るのでしょうか。その方法こそ、他でもない神様御自身に助けて頂くことなのです。神様は、私たちがどの程度まで試練に耐えうることができるか正確に把握しておられます。何故なら、常に隣で、私たちの人生の当事者として共に歩んでくださっているからです。神様はいつも、天の上の遥か彼方ではなく、私たちの直ぐ隣に居られます。ある時には並んで歩き、時に立ちふさがり、私たちが立てなくなると、おぶって歩いて下さいます。「神様は上ではなく、隣にいる」という大切な奥義に気づいた時、私たちは試練の脱出の道が、常に隣に居られる神様御自身であることに気付くことが出来るのです。神様は真実で正しい方ですから、私たちが助けを求めれば、常に脱出への道しるべとなって下さいます。私たちはどこまでも、この神様と共に歩んでいるのです。
私たちは誰でも生まれた時から、人生を、私たちのことを私たち以上に知っておられる神様と共に歩んでいます。だからこそ、この方を拒絶し、自分自身が神になろうとしてしまう思いから、私たちは離れ続けなければなりません。自分自身の思いを十分に恐れて注意しているならば、誰も自分が「既に立っている」などと言い切ることは出来ない筈です。私たちは、どうでしょうか。恐れて思い上がらず、本当の意味で謙遜に歩み、日々神様にお仕えしましょう。
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