『秩序を見据える』
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章1〜16節
中心聖句:『たとえ、だれかがこのことに異議を唱えたくても、そのような習慣は私たちにはなく、神の諸教会にもありません。』(Tコリント人への手紙11章16節) 2023年10月22日(日)主日礼拝説教要旨
偶像に献げた肉の問題を通し、パウロは、神の国の価値観に基づいて、何事においても神様中心に、その栄光を現わす行動をするように教えました。続けて取り扱われる問題は、男性と女性の被り物についての問題です。礼拝中に、一部の女性信徒が、被り物をかなぐり捨てて大声で祈り、騒ぎ始めるような問題が、当時のコリント教会でしばしば起こっていたようです。これをどこかで聞いたパウロは、「教会や礼拝の秩序を乱さないように」と厳しく指導したのでした。実は、当時のコリント市や教会に於ける、女性の正装がどのようなものであったかは、資料が発見されておらず不明ではあるのですが、パウロがこのように言っているのですから、礼拝内で、女性が被り物をするのが当時のマナーだったのだと思われます。パウロはここで、男女間の信頼関係や、神様が定められた立ち位置の問題に触れた上で、何故被り物が礼拝の秩序であるのかを、詳しく説明し、最終的に自分で判断するように求めます。男女間の説明部分については次回触れることとして、今週は教会内の秩序について考えていきたいと思います。
まず初めに確認しなければならないのは、パウロの言う、「女性は被り物をしなければならない」という勧めは、当時のユダヤ社会、ギリシャ社会の中でのみ有効な規定だということです。御言葉まで用いて語っているので、私たちも何か時代を越えた普遍的な規定を聞いている気分になるのですが、そうではありません。当時の、小アジア地域の教会に集う一人びとりが、自分達の文化と、御言葉に基づいて、神様の栄光を現わす為の一番相応しい姿が何かを霊的に考え、祈り、一致した結果が、「男性は教会内で被り物を脱ぎ、女性は被る」という形だったのです。当然、場所が変われば、土地ごとに礼拝に相応しい姿は変わっていきます。例えば、昔の日本ならば、男性は髪を伸ばして髷を結うのが、秩序に則った相応しい姿でした。キリシタン大名だって髷を結って礼拝に出ていたはずです。パウロが、言っているのは、そのように、各々の文化の教会で、既に霊的に一致して取り決めた決まり事があるのならば、それは神様によって承認された秩序なのだから、人間的な思いで挑戦してはならないということなのです。
私たちは、神の国の視点に立って物を見なければなりません。確かに、時代と場所、文化によって、何が秩序とされるかの共通認識は変わり、時には社会運動が教会の秩序に挑戦することもあるでしょう。しかし、教会内の秩序は、人間的な発想や外的圧力によって定められるものではありません。その場に集う一人びとりが、各々与えられた神の霊である聖霊様に尋ね、神様の栄光を現わす為に相応しいことを、互いに祈り合って探り出し、一致することで教会内の秩序は導き出されていくのです。それ故、いつも教会内は、全会一致を基準に物事を定めます。だから、教会は霊の一致によって定まったものは、「神様の御心によって定まったもの」として扱いますし、そこには議論の余地は一切生まれないと考えるのです。そうであるにも関わらず、肉的な価値観で物を見る人は、この秩序に挑戦して、神の栄光ではなく、自分の栄光の為に、敢えて教会の中に混乱を巻き起こそうとするのです。ここに人間の罪があります。
いつも、どのような時でも、生きておられる神様は、聖霊様を通して、私たちに語り掛けて下さいます。だから私たちは、それぞれ、何がその場に相応しいか自分で判断できますし、それを分かち合い、共有することで、何が神様の秩序に相応しいことかを確信し、安心して日々を過ごすことができるのです。私たちが聖霊様によって、いつも安心して日々を歩むことは、自らの御霊を与えて下さった神様の御心です。だから与えられた御霊によって互いに一致し、秩序を悟り自分中心ではなく、神様を中心に、いきいきと生活していこうではありませんか。
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