『神の許で生きる』
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章17〜24節
中心聖句:『主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。』(Tコリント人への手紙7章22節) 2023年4月23日(日) 主日礼拝説教完全原稿
久しぶりに、コリント人への手紙第一の学びへと戻ります。パウロは、6章最後から、7章前半にかけて、結婚と独身の問題を通して、「自身に与えられた神様からの賜物を喜んで受け取る」ことの大切さと、「与えられた賜物をありのままに受け入れて、神様の御心に仕える大切さ」を、コリント教会の人々に対して語ってきました。
神様は、私たちそれぞれの個性に応じて、最善のものを与え、常によく考えて、各々に最も良いものを、賜物や恵みとして与えてくださるのです。
「しかし、そうは言うけれども、この世の中には歴然と不公平が存在し、それは現代の教会の中ですら是正されていないではないか」と、考える人もいるかもしれません。事実、コリント人の手紙が書かれた当初も、教会の中には貧富の差どころか、自由人や奴隷という身分の差すらも存在している有様でした。
それを神様の不平等、また、神様からの恵みや賜物の格差だと考える人もいますが、それはこの世の価値観でものを見た場合に起こる大きな誤解なのです。パウロは、神の許で生きる私たちにとって大切な物は、この世での身分の違い、立場の違い、貧富の差などではなく、御心によって与えられている役割の違いである事を、結婚と独身の問題から話題を切り替え、今日の箇所を通して、コリント教会の人々にはっきりと教えようとするのです。
17節でパウロは、「ただ、それぞれ主からいただいた分に応じて、また、それぞれ神から召されたときのままの状態で歩むべきです。私はすべての教会に、そのように命じています。」と話し、私たちの身分、持ち物、周囲の環境は、全て神様から与えられている「分」であり、神様から「召された」仕事に纏わるものである事をはっきり宣言しています。
私たちは、神様の御心によって進められる物語の中で、各々重要な役割を与えられ、その任務の中へ召されます。そして神様は、私たちがその任務を達成し、活き活きと活躍できるように、その任務に応じた最善のものを、私たちに用意して下さるのです。
このことについて、解りやすく説明するために、パウロは18節から20節で、「召されたとき割礼を受けていたのなら、その跡をなくそうとしてはいけません。また、召されたとき割礼を受けていなかったのなら、割礼を受けてはいけません。」と、割礼の問題を一例として取り上げています。
割礼とは、創世記の時代に、父なる神様が、選び出したアブラハムに求めた、神の民の目印で(創世記17章10-27節)、旧約聖書の時代のユダヤ人にとっては、何よりも重要なものであると考えられていました。しかし、そのような割礼ですらも、パウロに言わせれば19〜20節で、「割礼は取るに足りないこと、無割礼も取るに足りないことです。重要なのは神の命令を守ることです。それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。」という言葉の通り、それぞれの役割や状況に応じて便宜的に施すか施さないかを決めてすら良い程に、最早重要なものではないのです(使徒行伝16章3節、ガラテヤ2章3節)。
では、キリストによって召され、神の御許で生きるようになったクリスチャンにとって、この世のあらゆる立場や持ち物よりも、更に重要なものとは一体何なのでしょうか。
身分や立場で、神様の前での私たちの優劣が決まる事は無い、と言われれば確かにその通りでしょう。「しかし、そうは言っても、教会の中にある身分の格差や、貧富の格差は不公平では無いか。むしろ、神が本当に存在するならば、教会の中でぐらいは、そのような身分や立場、貧富の差は解消されていてしかるべきでは無いか、理不尽ではないか」と考える人も当然存在するのではないでしょうか。
しかし、それはこの世的な価値観で物事を見る為に起こる大きな誤解です。それについてパウロは、更に奴隷制の問題に言及することで、コリント信徒に悟らせようとします。
21-22節で「あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」と語られている通り、神の御許で生きるクリスチャン全員が、キリストの十字架の血潮によって買い取られた奴隷です。
神様の御許で、私たちは全員が等しくキリストの所有物であり、存在の重要性には一切優劣がありません。
キリストは、自らの十字架の血潮によって私たちを買い取ったのですから、買い取られた私たちに格差が出来ること自体が、理屈に合わないことだからです。
では、私たちの間に確かに存在する、この差は一体何なのでしょうか。それこそが、神様がえがかれる救済の物語の中で、私たちに与えられる役柄の違いなのです。この世界は、神様に背を向ける人々が、罪によって作り上げた格差によって動いています。この世に属する人々も、その格差の中の上にいたり、下にいたりしながら過ごしています。
神様は、そのような格差の中で、罪に苦しむ私たちを救い出す為に、御子キリストを遣わして十字架に掛けて下さいました。そして、そのような一人びとりが悔い改めて救われるように、その御心によって救済の御計画を立てて下さっているのです。
この救済の御計画こそが、神の物語です。その物語にそって、神様が進められている歴史そのものを、神学では救済史と呼びます。
私たちは、そのようないびつな構造をしている、格差に塗れたこの世の中で、各々が最も活躍し輝ける場所へと派遣されます。神様はその為に、私たちにそれぞれ役柄を与え、それに必要な最善の、身分、持ち物、才能や能力を与えて、そこへと遣わして下さるのです。
だから、神の許で生きる私たちにとって、身分や持ち物の差は、与えられた役柄に応じて用意された「装い」の差異に過ぎません。それが私たちの価値を決めるものではないのです。
それは、あたかも演劇に似ています。演者は、それぞれに与えられた「役」に応じて、劇衣装を身にまとい、その役柄を演じようとします。しかし、どのような役をして、どのような衣装を身にまとったからと言って、演者そのものに影響が出ることはありません。演者が貧しい人の役をしたら、演者のお金は無くなってしまうでしょうか。そんなことはないはずです。
だからこそ、私たちは、自分達が与えられている、立場や能力、身分、その他全てのものが、用意された役割に応じて与えられて居る「劇衣装」に過ぎない事を知らなければなりません。
だからこそ、「主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。」と、パウロが言うように、奴隷の役柄になったからといって絶望して卑屈になる必要は一切無く、逆に自由な立場になったからといって、調子に乗って放蕩してはならないのです。
もし、その事を忘れて、この世で与えられた「劇衣装」こそが、自分の全てであると思い違えるならば、私たちはこの世にあっという間に取り込まれて、神の許で生きるものではなくなってしまいます。22節で、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。」と、パウロが忠告している通りです。私たちはあくまで、この世の外側の存在です。だからこそ、どのような役柄を与えられていても、私たちクリスチャンの兄弟姉妹はひたすらに平等なのです。
私たちは神様によって、それぞれが最善の役柄を与えられ、その任務に召され、必要な全ての賜物を与えられています。そうであるにも関わらず、その任務に逆らい、導きによってではなく、自分の思いによって現状を変更しようとしてしまいます。ここに人間の罪があるのです。だからこそ、私たちには24節で、「兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。」という御言葉が必要なのです。
私たちは、最早この世界の外側に連れ出され、外側からこの世界に関わる特別な存在とされています。神様がそのように、私たちを特別な存在にして下さったのですから、私たちもそれに応じて、この世界での自らの役柄に一喜一憂することがあってはなりません。
むしろ、神様から与えられた役柄を喜びをもってうけとり、与えられた任務を楽しみながら仕えていく。そのような信仰生活を、各々が全うしようではありませんか。
前ページ
次ページ
〒453-0063
愛知県名古屋市中村区東宿町2-102
TEL/FAX:052-411-5367
受付時間:午前11時から午後6時まで
(月・金休業、礼拝中は応対できません)
アクセス
地下鉄東山線「中村公園前駅」から徒歩20分
バス停「豊国神社前」から徒歩5分
バス停「東宿町」から徒歩2分
駐車場は5台分程用意があります。
隣接の立松接骨院駐車場もご使用頂けます。
(日曜日のみ)