『神の教会を軽んじる』
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章17〜22節
中心聖句:『それとも、神の教会を軽んじて、貧しい人たちに恥ずかしい思いをさせたいのですか。』(Tコリント人への手紙11章22節) 2023年11月5日(日)主日聖餐礼拝説教要旨
パウロは、「神様の御心を探り出す為に行われるのが教会の話し合いである」と教えた後、「私たちの集まりは、『主の食卓』となるべきである」と、コリント信徒達に語り始めます。互いに争っていては、教会の集まりは「主の食卓」となりません。それは、「各々が神の教会を軽んじているからだ」とパウロは言っているのですが、一体どういうことなのでしょうか。
日曜日の集まりは、初代教会では、礼拝と別に行われる「主の食卓」と呼ばれる集まりでした。当時の日曜日は、月曜日のような週初めの平日であり、それぞれ仕事が終わった後の夜に集まり、行われていたのです。そこへ互いに食事を持ち寄り、パンを割いて、聖餐が守られていました。この聖餐の食事は、聖礼典(サクラメント)と呼ばれ、今日でも最も大切な儀式とされ続けています。この聖餐式は、ただ、イエス様を記念して行うだけの記念式ではありません。私たちをいつも傍で見て、日常生活でどのように辛い思いをしているのか知っておられるイエス様が、自らの手で用意し、私たちを力づける為に招いてくださるのが、聖餐の食卓なのです。イエス様が自ら用意し、招待客として私たちを招いてくださるので、私たちは、主日の集まりを、「主の食卓」と呼んでここに集い、招いて下さったイエス様を主役として、心から礼拝を捧げます。例え、主日礼拝で聖餐式が行わなれない週であっても、イエス様が用意された食卓に、私たちが招かれ、集っているという事実に変わりはないのです。イエス様は、聖餐の食事によって、十字架による罪の赦しと、永遠の命の約束を思い起こさせ、また、命のパンである御言葉によって、私たちの心を励まし、力づけて下さいます。私たちは、この場でイエス様が用意して下さった食卓を囲み、糧を頂いて、各々、日常の場へと派遣されていくのです。
イエス様が用意して下さる主の食卓に招かれるからこそ、私たちは日曜日にこの場に集まることができるのです。だから、牧師も、信徒も、礼拝に参加する者は皆、この食卓である聖餐台の方を向いて礼拝を行ないます。そこには、父なる神様も、また天の御使い達も列席しています。それほどまでに、この主の食卓は大切な場所なのです。しかし、コリント教会では、信徒たちが、この大切な主の食卓を、各々、自分の欲を満たす場として利用し、小競り合いを起こしていました。遅い時間でないと来られない兄姉達を待ちもせず、用意された食事を全て平らげて酔っ払ている者や、様々に騒いで場を混乱させ目立とうとする者、教会の中の弱い兄姉を虐げて優越感に浸る者などが後を絶たなかったのです。このような人々が、主の食卓や教会の中のあらゆるものを、自分の欲を満たす為に用いても良いと考えるのは、神の教会を軽んじているからに外なりません。そこがイエス様の用意してくださった席であるとも考えず、また、父なる神様や御使い達が列席していることも考慮に入れず、招待されてやってきた自分こそが主役であると勘違いして横暴に振舞い、その場の全てが自分の為に存在すると考えて私物化しようとしてしまう。このような自分中心な性質の中にこそ、人間の罪はあるのです。
主の食卓は、イエス様がまごころを込めて、私たちの為に用意してくださるものです。私たち一人びとりが、神の独り子であるイエス様に、それほどまでに気にかけられている存在だからです。ですから私たちも、主の食卓に招かれた招待客として、このイエス様を食卓の主役と認め、主日の礼拝も、教会の働きも、全てがイエス様の栄光の現れる形で行っていかなければなりません。イエス様は、私たちの日々の苦しみや悲しみを全て理解して慰め、労り、励ます為に、毎週主の食卓へ招いてくださるのです。だから私たちも、喜んでこの招待に応答し、主の食卓へ謹んで参加し、主役であるイエス様の御名を、共に褒め称えようではありませんか。
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(日曜日のみ)