『義の太陽が昇る』
聖書箇所:マラキ書4章1〜6節
中心聖句:『わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒やしがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る。』(マラキ書4章2節) 2023年11月26日(日)主日礼拝説教要旨
来週から、アドベントです。アドベントは、待ち望むことを覚える期間です。私たちにとって、待ち望むという行動は、案外身近なものです。物価高、苦痛な人間関係、忙しい日々や過労、時には受験など、信仰に関係ない所でも、様々なことからの解放を待ち望んでいるものだと思います。クリスマスやお正月を楽しみにするような良い待望がある一方で、悪い方向の待望には、常に怒りや悲しみ、苦しみを伴うものです。私たちが、生活の中で感じている怒りや苦しみ、悲しみに対して、神様はどのように受け止め、対応して下さるのでしょうか。
旧約時代の人々は、神様から正しくあることを要求される一方で、悪人が栄え、また、正しくあろうとする人々こそが苦しみを受けている現実に呻いていました。その嘆く様子は、ヨブ記や詩編、箴言、伝道者の書など、多くの所で確認することが出来ます。十分の一の捧げもの義務を怠り、他人を傷つけ、不正を行ない、礼拝を蔑ろにする人々が、何の不利益も被らず、寧ろ幸運や利益を享受する一方で、誠実に捧げものを行い、礼拝に出席し、奉仕に取り組む人は、何の賞賛も受けず、不利益を押し付けられるのが現実です。多くの人は思います。「正しく生きることには何のメリットも無い。そして神様はたぶん何も見ていない」と。それでも、多くのクリスチャンは正しくあろうとするのですから、非常に立派だと思います。しかし、そのような「正しさ」を継続する生活から、怒り、悲しみ、苦しみは消え去ることは無いのです。
神様は、そのような状況をどうでも良いと思われているのでしょうか。そうではありません。怒り、悲しみ、苦しみ悶えながら、それでも正しくあろうとする人々を、神様は「わたしの宝(3章17節)」と呼んで、二つの約束をなさったのです。それは「かまどように燃える日」と、「義の太陽が昇る」約束です。これは、世の終わりの時に、全ての不正が罰せられ、正しくあろうとした人たちが、神様からの称賛を受ける清算の約束なのです。私たちが、様々な苦しみからの脱出を待ち望むときに、何故怒りや悲しみを感じるのは何故でしょうか。それは、本来、正しく執行されるべきことが執行されていないと感じるからです。そして、それを執行されるべき方が、その状況を放置されていると感じるからでもあります。しかし、私たちにとって福音なのは、神様は決してあらゆる理不尽を見過ごされている訳でも、放置されている訳でもありません。むしろ今この時も、全てを公平に精算するために、記録し、準備されています。世の終わりの裁きと聞けば恐ろしく感じるかもしれませんが、それは一体誰の為、何の為に行われるのでしょうか。そうです、日々苦しみながらも正しくあろうと奮闘する私たちの為に行われるのです。義の太陽の翼とは、陽の光のことです。不正を行う罪びとにとってそれは、焼かれるような裁きの火ですが、正しくあろうと努力する人々にとっては、心と身体を温める陽の光なのです。勿論、私たちも完璧ではありません。世の終わりの裁きが恐ろしいですか? その為に、神様は大切な独り子を十字架に掛けて、私たちの罪の罰の身代わりにしてくださったではないですか。私たちにとって、世の終わりの裁きは、純粋な喜びの時なのです。
神様は、救い主イエス様という義の太陽によって、正しくあろうとする私たちの努力が、決して無駄にならないことを約束されました。この約束が果たされることを、旧約の時代の人々は、皆、涙ながらに待ち望んでいたのです。現代の私たちも、世の終わりの時を待ち望んでいます。これを覚えて祈るのがアドベントの時なのです。私たちのあらゆる待望は、義の太陽によって、怒りや悲しみではなく、期待と希望と喜びを伴うものへと変えられています。だから正しくあることを諦めず、喜んでイエス様の再臨の時を待望していこうではありませんか。
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