『ザカリヤの待望』
聖書箇所:ルカの福音書1章67〜79節
中心聖句:『主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。私たちの父アブラハムに誓われた誓いを。』(ルカの福音書1章72〜73節) 2023年12月3日(日)第一アドベント聖餐礼拝説教要旨
今週からアドベントです。アドベントは、待望を覚える期間であると、先週は学びました。待望は、苦しみからの脱出だけなく、クリスマスのような良い時を楽しみにするという素敵な側面もあります。私たちにとって、楽しんで待ち望むのは幸せな時間です。しかし、その素晴らしい時間も、余りにも長くなりすぎると、少しばかり疲れてしまうのではないでしょうか。
良い時を待ち望むのは素晴らしいことですが、長い時間待ちすぎると、自分が忘れられているのではないかと不安になることもあります。今日開いた箇所のザカリヤも、余りにも長い時間を待ちすぎて、すっかり疲れ切ってしまっている人でありました。このザカリヤと、妻のエリサベツは、二人とも神様の前に正しい人で、神様から与えられた仕事を落ち度無く行っていました。神様の前に誠実にお仕えしていれば、やがて素晴らしい祝福が与えられるということは、聖書の中の至る所で書かれ、約束されていることです。先週開いたマラキ書4章でも、正しく神様に仕える人たちは、必ず義の太陽によって称賛を受け、報われる時がくるとはっきり約束されているのです。ザカリヤも、そういった聖書の約束を覚えていたからこそ、何一つ落ち度なく、神様に忠実にお仕えしたのだと思います。しかし、実際に、それまでのザカリヤに起こっていたのは、余りにもひどい仕打ちの連続でした。ザカリヤ夫妻は、子供が居なかったので、そのことによって、いわれのない恥を受け続けていたのです。当時、子供が与えられないのは、神様の前に不正を行っていることが原因であると、そのような迷信を多くの人が信じていました。ザカリヤに、一生に一度の重要な仕事である、香を焚く仕事が、いつまでもくじで回ってこなかったこともあいまって、彼らが恥じ入らされる経験に拍車をかけていたのだと思われます。その中でも、ザカリヤ夫妻は、決して仕事の手を抜きませんでした。これは素晴らしいことなのですが、そのようなことが続けば、人間の心は摩耗しきってしまいます。
実際、ザカリヤはどうなったのでしょうか。待つことに疲れ切った彼は、老齢になって、やっと香を焚く仕事が与えられ、その上で、「子どもが与えられる」という素晴らしい報せを、他でもない神様の御使いから知らされたにも関わらず、その言葉を信じることが出来ませんでした。鼻で笑うとまでは行かなかったかもしれませんでしたが、それに近しい態度で、嬉しくもなんとも思わないと応答するほどに、心が摩耗しきっていたのです。私たちは、長い時間を待ち続けられるほど強くはありません。しかし、神様は、そのように心が摩耗しきったザカリヤが、それ以上呟いて罪を犯さないように、その口を一端閉じられ、そしてマラキ書で予告されたエリヤ、即ちバプテスマのヨハネという素晴らしい人物の親になるという恵みを、ザカリヤの目の前に見せられたのです。ザカリヤは、マラキ書の予告の通り喜び、「子牛のように跳ねまわって」、神様の御名を賛美しました。例え長い時の中で、私たちの心が摩耗したとしても、神様の恵みは、それを尚、完全に覆す程に、素晴らしく喜びにあふれるものなのです。
ザカリヤが賛美している通り、神様は私たちへの御言葉による約束を全て覚えておられます。例え、今、御言葉の約束が実現していないように見えても、私たちの真心や正しい行いが報われていないように見えても、神様は必ずそれら全てに応答して下さり、私たちの声は疲れや悲しみから解放され、全て賛美の言葉へと変えられるのです。「私には、神様の御言葉が実現しないのではないか」と心配したり、「私のことなど、神様は忘れているのではないか」と、寂しく思う必要はありません。ザカリヤのように、寧ろ待たされるほどに、私たちに与えられる報いと恵みは大きくなるのですから、希望を持って待ち望むことを覚えて行きましょう。
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