新年のご挨拶を申し上げます。本日は、教会標語と、年間聖句の箇所を取り上げさせて頂きました。「確信をもって祈る」ことの大切さを学ぶことができる一年になるようにと、名古屋教会では、昨年の四月から、教会標語と聖句としてこれを目標とさせて頂いております。それも残すところ後二ケ月程となりました。昨年は、確信をもって祈りを捧げる機会が、皆さんにはあったでしょうか。そもそも、確信をもって祈るとはどういうことなのでありましょうか。
今日、読んで頂いた箇所は、聖書をお読みになられない方の間でも有名な箇所だと思います。何故なら十二弟子達が、悪霊を追い出すのに失敗する箇所だからです。イエス様と、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人が山から降りてくると、他の十二弟子達が、悪霊に憑かれた少年から、悪霊を追い出すことが出来ずに責めにあっていました。イエス様が何事かと尋ねられると、群衆がその詳細を報告しました。イエス様が、それに対して「不信仰な時代だ」とか、「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と大変お怒りになられたので、読者にとって印象に残り易い箇所だったのではないでしょうか。この箇所を読む多くの方は、このイエス様の言葉が、不甲斐ない弟子達への叱責であるかのような印象を受けるかもしれません。しかし、実際にはそうではありません。何故なら、19節で、イエス様がこの言葉を、群衆に話したとはっきり書かれているからです。イエス様は、群衆の不信仰について嘆かれ、その後に、子供を連れてきた父親の不信仰をお叱りになられました。「できるものなら」などと投げ槍に願い出る父親に、イエス様は、「信じる者は何でも出来る」と叱責し、宣言されたのです。
弟子達は、何故悪霊を何故追い出せなかったのでしょうか。また、何故、後にイエス様が命じられると追い出すことが出来たのでしょうか。多くの読者が感じるように、弟子達に力が無く、イエス様には不思議なパワーがあったからなのでしょうか。決してそうではありません。用いられる神様の権威は、誰が用いても同じく力があります。他でもないイエス様も、最後に、何故、自分達に悪霊が追い出せなかったのかを尋ねる弟子達に対して、「祈りによらなければ」と、はっきり教えられています。それ故に、足りないのは弟子達の力ではなく、祈りだったのです。では、「祈りによらなければ」といいますが、誰が祈るのでしょうか。悪霊を追い出そうとする弟子達がでしょうか。そうではありません。この現場で真に祈りを求められていたのは、弟子達ではなく、少年の父親です。例え、神様の権威を行使するのが、著名な預言者であっても、救い主であっても、助けてほしいと願い求める人が、端から神様の力と権威を信じず、祈りを放棄しているならば、誰が何をしても、結局事態は動かないのです。逆に、もし神様を信じて、本当にその権威と御力を求め、確信をもって祈るならば、それが御心に反しない限りは、からし種一粒程度の小さな信仰であっても大きな御業が、その人に起こされるのです。 日々の必要や、困りごと、受験の成否、職を求めてなど、多くのことで私たちは神様に祈り求めます。しかし、祈る私たちが「出来るものならやってみてくれ」と、不信仰な心の態度でいるならば、例え牧師に祈って貰おうが、イエス様に縋ろうが、何か御業が為されることはないのです。それ故に、イエス様はまず、父親に悔い改めを求めました。父親が不信仰を悔い改めて祈り求めた時、初めてこの悪霊は、その信仰と祈りによって、少年から追い出されたのです。
昨年も、神様の前に何か願い事をされた方は多かったと思います。その時、どのような心持ちで神様の前に祈られたでしょうか。確信をもって御心を求める祈りには、必ず大きな御業の応答があります。今年も各々、確信をもって、神様の前に祈り求めていこうではありませんか。
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