『自分自身を吟味する』
聖書箇所:Tコリント人への手紙11章23〜34節
中心聖句:『だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。』(Tコリント人への手紙11章28節) 2024年1月14日(日) 主日礼拝説教要旨
本日は、聖餐の箇所を開きました。聖礼典(サクラメント)の一つである聖餐式は、洗礼を受けた者だけが預かる事の出来る、キリスト教の中で最も厳かな儀式の一つです。聖餐式の最中は、誰であってもふざけることは許されません。それに加えてパウロは、誰でも自己を吟味しながら、これを受けねばならないと教えました。そもそも「聖餐」とは何なのでしょうか。
聖餐は、イエス様が私たちに命じられた、パンを割き、杯を回して行う記念の儀式です(23~26節)。何の記念かと言えば、イエス様が、私たちを含む全ての罪びとに裏切られ、引き渡され、十字架の上で罪の罰の身代わりとなって死なれたことの記念です。渡される夜、聖餐を命じられた弟子達は、その後すぐに、祭司長達に捕らえられたイエス様を裏切り、逃げ出してしまいました。我が身可愛さに、イエス様に、全ての責任を押し付け逃げ出したのです。そのような弟子達の中に、私たち自身も含まれているのです。パウロは態々「主イエスは渡される夜」と書き記して、そのことに目を向けるようにコリントの信徒たちに教えました。聖餐の命令を、「私は主から受けた」と、直接の伝聞として語ったのも、「私たちは、皆その場にいたのだ」と教える為なのです。それ故、私たちは、聖餐を受ける度に、その命令の通りに、イエス様の十字架による死の意味を告げ知らせることを大切にします。常に聖餐台が礼拝の中心に置かれ、牧師が、十字架の死を中心に御言葉を取り次ぐのもそれが理由です。私たちは、自分が罪の責任と罰を、全てイエス様に押し付けて、十字架の死に明け渡した張本人です。その為に、今裁かれずに済んでいますし、何なら今現在ですら、「そうし続けている」のですから、この事実を粛に受け止め、聖餐へ臨まなければなりません。それ故にパウロは、乱痴気騒ぎで聖餐を台無しにしているコリント信徒に、聖餐を受ける際の自己吟味を厳しく求めたのです。
聖餐を受ける際に必要な自己吟味とは何でしょうか。それは「自分が、到底聖餐を受けるに相応しくない者であること」を弁えることです。例え洗礼を受けていようが、私たちはイエス様に罪を押し付けて滅びを免れたのですから、例え誰であろうと、イエス様の前に出て聖餐を受けるに相応しいと自己評価できる人間は居ないのです。そうであるにも関わらず、私たちはイエス様から招かれて、聖餐の席でパンと杯を頂きます。それはただひたすらに、イエス様御自身が、私たちを聖餐の食卓へ招いて、受け入れて下さっているからに他ならないのです。イエス様は、渡される夜、全てをご存じになられた上で、弟子達を励まされました。ペテロに三度裏切る事を予告された後、立ち直ったら他の弟子を励ませるよう優しく祈り、慰められました(ルカ22章31〜34節)。同じように、イエス様は私たちが自らの罪の裁きに耐えきれないことをご存じになられた上で、私たちの罪を自ら引き受けて、御自分の十字架の犠牲によって「赦す」と宣言してくださいます。私たちを「相応しくないまま」で聖餐の席に招き、自らの血潮による新しい契約によって、罪の赦しと永遠のいのちの交わりに加えて下さるのです。
聖餐は、私たちが考える以上に厳粛に、自らの事を吟味しなければならない場です。それを弁えず、聖礼典を軽んじれば、その大切さを理解させるために、神様御自身が、その者を懲らしめられる程であります。しかし、私たちが悔い改めて、自身に目を向けて吟味しつつ、聖餐の場に集うならば、そこにはイエス様の優しい赦しと招きがあり、私たちは本当に、喜びながら神様と共に生きる、活き活きとした人生の中へと招かれるのです。主日の全ての礼拝は、聖餐こそが中心となって行われます。私たちは、主日に教会へと集う時、十分に自己を吟味しながら礼拝に参加しているでしょうか。良く自らを吟味して、弁えつつ御前に詣でましょう。
前ページ
次ページ
〒453-0063
愛知県名古屋市中村区東宿町2-102
TEL/FAX:052-411-5367
受付時間:午前11時から午後6時まで
(月・金休業、礼拝中は応対できません)
アクセス
地下鉄東山線「中村公園前駅」から徒歩20分
バス停「豊国神社前」から徒歩5分
バス停「東宿町」から徒歩2分
駐車場は5台分程用意があります。
隣接の立松接骨院駐車場もご使用頂けます。
(日曜日のみ)