『御業の起点』
聖書箇所:ルカの福音書5章1〜11節
中心聖句:『先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう。』(ルカの福音書5章5節) 2024年1月21日(日) 主日礼拝説教要旨
先日、テレビで「今年の三が日に初詣に行った人は半々で、おみくじを引いた人は八割以上である」という話を聞きました。昨今、宗教に対し、あからさまに反対する声が大きくなっているように思われますが、実際には、まだまだ信心を失っていない人は多いようです。しかし、いきなり「神が居る」と言われたところで、信じることのできる人が稀なこともまた事実です。信じたいと願ったとしても、根拠のない話では半信半疑になるのがやっとのことでしょう。この半信半疑を確信に変えることなど、果たして私たちにはできるのでしょうか。
教会は、この天地を創られた父なる神様と、私たちの受けるべき罪の罰の身代わりとして十字架にかかられた、救い主イエス様の存在を告げ知らせています。しかし、実際に宣べ伝えたところで、信じるに足る根拠がなければ、確信を持つことは難しいものです。だから私たちは、その根拠を得るために、自分自身の体験として、神様の御業を目撃しなければなりません。
今日の箇所に出てくるペテロも、正に実体験として大きな御業を目撃し、半信半疑を確信に変えられた人です。ペテロは、今日の箇所の出来事が起こるまで、イエス様が救い主であると信じてはいましたが、確信には至らず、半信半疑のまま従っていました。そのような彼の「半信」が確信に変わったのは、おびただしい魚が捕れるという御業を体験したからです。ペテロは、イエス様に漁に出るよう勧められましたが、それに対して消極的でした。何故なら、専門家の漁師たちが、最適な時間である夜中に漁を行って何も取れなかったのに、漁の素人であるイエス様に、漁に適さない朝の時間に網を投げろと言われたからです。しかし、ペテロは、イエス様を無視せずに「おことばですから」と網を投げました。ペテロは納得こそできなかったものの、イエス様を信じたいと願っていたので、とりあえず従ってみることを選択し、行動に出たのです。その瞬間に大きな御業が起こり、獲れないはずの魚が大量に獲れました。それがいかに「ありえない」御業であったかは、ペテロ自身が、一番良く理解できることでした。
私たちが「信じたい」と願った時、神様はその思いが正しいことを証明するために、大きな御業を起こして、私たちの半信を確信に変えて下さいます。そのような御業のきっかけこそ、「おことばですので」と聖書の御言葉に従ってみようとする私たちの行動なのです。例え半信半疑でも、その「半信」を神様は喜んで、大きな御業を私たちに見せて下さいます。そして大きな御業を体験した時、私たちは、この世に本当の神様がおられることを知り、自分が罪びとであることがわかるようになるのです。神様が実在されること、イエス様が救い主であること、そして自身が罪びとであることを突きつけられることは、私たちにとって辛いことであるかのように思われるかもしれません。しかし、私たちが、自分が罪びとであると気づいて悔い改めた時、罪がすぐに赦され、罪によって苛まれない安息が得られるようにと、イエス様は、私たちの罪の罰の身代わりとなって、十字架にかかり死んで下さったのです。
御業によって自身の罪が示され、御前にひれ伏すペテロに、イエス様は「恐れることはない」と優しく言葉をかけられました。恐れることはないとは、「恐れることをやめなさい」という意味の言葉です。私たちは、自分が罪びとであることを認め、悔い改めてイエス様を信じるならば、十字架の血潮によって全ての罪が赦され、その汚れも洗い流されます。ですから、もはや罪を裁く神様を恐れる必要もなくなり、自分の存在や人生について悩む必要がなくなり、今からでも活き活きとした人生を歩めるように変えられるのです。ですから、まず信じるために、「おことばですから」と行動を起こすことから始めてみられるのは、いかがでしょうか。
前ページ
次ページ
〒453-0063
愛知県名古屋市中村区東宿町2-102
TEL/FAX:052-411-5367
受付時間:午前11時から午後6時まで
(月・金休業、礼拝中は応対できません)
アクセス
地下鉄東山線「中村公園前駅」から徒歩20分
バス停「豊国神社前」から徒歩5分
バス停「東宿町」から徒歩2分
駐車場は5台分程用意があります。
隣接の立松接骨院駐車場もご使用頂けます。
(日曜日のみ)