『正しい御霊に仕える』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章1〜3節
中心聖句:『神の御霊によって語る者はだれも「イエスは、のろわれよ」と言うことはなく』(Tコリント12章3節)
2024年2月4日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
私たちは、時折、意味も無く感情的になったり、普段の自分らしからぬ行動に出て、大きな失敗をしてしまう事があります。逆に、自覚が無いにも関わらず、周囲から「良い意味で変わったね」と評価されることもあります。これらの事は、多くの場合、私たちが知らない間に働いた、霊の影響によってもたらされたものです。私たちは日常生活の中で、想像以上に多くの霊に触れ、影響を受けています。問題は、その影響や働きが、私たちの目に見えないことです。
当時、コリント教会では、自身が預言者、あるいは御霊の人(霊的に特別な存在)だと自称する人物が、不詳の霊によって語ったり、トランス状態に陥って騒いだりして、他の兄姉を躓かせて悩ませていました (14章37節)。私たちは、自らの目で霊を見ることができないので、所謂「スピリチュアルっぽい」人間に対して、恐れや憧れを抱いてしまいがちです。だから「これが聖霊ないしサタンの働きだ」と乱暴に言い切ったり、トランス状態に陥って叫んだりしている人を見たりすると、私たちはその人が、何か特別な存在であるかのように錯覚してしまうのです。また、自分がそのような体験や力を手に入れてしまうと、それが全て神の霊の働きによる、良いものであるかのように感じてしまいます。しかし、殆どの場合、本当に霊的な体験は、私たちの自覚していない時に、人知れず起こるものです。例え教会内で、そのような霊の働きが感じられたとしても、それが必ず聖霊によるものとは限らないのです。聖霊による聖めを体験したクリスチャンは多いですが、自分がいつ、どのように変えられたかを、全てを厳密に言うことが出来る人は居ません。霊による影響は、私たちの行動という形にならないと判らないからです。心の内で、変化をもたらす霊の動きすら知覚できないというのに、どうして外から働く霊を、私たちが見定めることなどできるでしょうか。故にパウロは、霊的な事柄を安易に取り扱わず、警戒することを教える為に、霊を見分ける方法を人々に伝えたのです。
その一つが、「聖霊の働きによっては、誰も『イエスは、呪われよ』とは言わない」という基準です。これは、「イエスは、呪われよ」という言葉を、字句通り発言するか否かだけを問うているのではありません。神様が御心によって私たちに与えられる働き、仕事、環境、母教会に対して、不平不満を持って呟く態度全てが、この言葉に繋がっています。出エジプトの民は、自分の意思で従ったというのに、荒野の中で、神様が用意された指導者(モーセ)に逆らい、マナなど恵みの御業に対して罵詈雑言を並べたてました。神様が御心によって与えられた全てに対して呟き、御心を否定する者は、間違いなく、出エジプトの民と同様に、「イエス(神)は、呪われよ」と叫んでいるのです。しかし、今日の箇所の趣旨は、それを指摘して自他を裁くことではありません。大切なのは、自身が健全だと思っている霊性の一部、ないし大部分が、自身の罪や、「イエスは、呪われよ」と叫ばせる霊の穢れによって構成されているのを自覚することなのです。しかし、自分の信仰に自信のある人ほど、これを受け入れられないのです。
自信満々に御霊の人を名乗る者を悔い改めさせる為、パウロは聖霊を見分ける術を人々に授けました。これは神様の恵みと、憐みによることです。霊的に迫られ、辛い思いをすることは、恵みでないと考える人もいるかもしれません。しかし、私たちは迫られ、衝撃を受け、辛い中で悔い改めることでしか、神様への恐れを獲得出来ないのです。この恐れこそ、人の努力では決して勝ち取れない素晴らしい宝物です。神様への恐れによらなければ、誰も正しい御霊の、小さな声に耳を傾け、従うことが出来ないからです。私たちは、霊に対して無防備であってはなりません。危機感を持ち、聖霊にのみ従うことを祈り求めていこうではありませんか。
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