『荒野の中を通れ』
聖書箇所:Tコリント人への手紙12章1〜3節
中心聖句:『聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。』(Tコリント12章3節)
2024年2月11日(日) 主日礼拝説教要旨
私たちが、日々、様々な霊的存在から受ける影響は、自分で思う以上に大きなものです。その影響は、意識的に聴き従おうと考える程大きくなっていくものです。神の霊からの影響を最大限享受する為にも、私たちは意識的に、聖霊の小さな声に耳を傾けなければなりません。しかし、神の御霊の声に聞き従うことは、私たちにとって必ずしも快適だとは限らないのです。
世の中の人の多くは、自分の人生を自分の意思だけで生きていると考えていますが、実際はそうではありません。それをパウロは、教会の面々が、以前様々な偶像の宮を無意識に引き回されていた事実を例に、説明しました。私たちは、特に意識しない限り、関わる霊の影響を無作為に受けてしまいます。だから、霊的な事柄に対して無知や無防備であってはなりませんし、意識的に正しい霊に仕えなければならないのです。私たちは、自分が聖霊の影響をどの程度強く受けているのかについて、良く知っておかなければなりません。その為の基準を、パウロは、コリント教会に伝えたのです。それこそが「イエスは主です」と言えるかどうかという基準です。勿論、ただそれを字句通りに言うだけなら、誰にでもできます。そうではなく、自らの行動や言動、態度などを通して、「イエスは主です」と言えるような生き方が、どのぐらい出来ているかを、この基準は私たちに問うているのです。勿論、そのような生き方が完全に出来ている人は稀でしょうし、罪を犯さず生きることも出来ません。しかし、少なくとも、この基準で己を測り続ける限り、私たちは自身の霊の状態を見極め続けることが出来るのです。
聖霊様は、私たちを、いつも「イエスは主です」と言わしめる生き方へ導いて下さいます。神様もその導きを通して、私たちの為に用意された最善の賜物と生き方を与え、私たちを喜ばせようとして下さるのです。しかし、その為に通るようにと聖霊が求める道は、私たちにとって決して快適なものばかりではありません。神様が御心によって与えられた土地、仕事、役割、奉仕、教会、時には健康状態までもが、私たちにとっては耐えがたい程の苦難であるかのように思われることもあるのです。自分にとって喜びが無い道を通される時、私たちは「神様は愛が無い」とか、「何故喜ばせてくださらないのか」とか、「まさか力がないのか」と考えてしまうかもしれません。決して勘違いしてはいけません。神様は、私たちに最善を必ず与えようとして下さいますが、そこへ至る道までもが、快適であるとは限らないのです。モーセに連れられ、エジプトを出たイスラエルの民も、嗣業の地へ到達するために荒野を通らねばなりませんでした。神様は、荒野の中でも、彼らを最短の距離で、恵みを与えながら導かれたというのに、「快適ではない」という理由で、民は文句を呟いて、その導きに逆らったのです。神様は常に最善へ導いて下さるというのに、「快適ではないから」という理由で呟き、信用しないのはいつも人間の側です。私たちは、「今快適ではない」ので、聖霊の声を否定し、耳障りの良い不詳の霊の声を聞き入れて、神様の御心に逆らってしまうのです。ここに人間の罪があります。
私たちの最善は、常に快適と同義ではありません。荒野のような道を通ることを、求められることもあるでしょう。しかし神様は、荒野の中を通った民を、常に雲と火の柱で守り、マナを降らせて養い、海を割って最短で約束の地へ導かれました。同じように神様は、苦難の中でも倒れないように守った上で、私たちを、最善へ導き、喜ばせてくださるのです。だから私たちは思い上がって、神様のなさる御業に対して、不遜に呟くようなことがあってはなりません。自身の霊性を常に確認し、「イエスは主です」と言わしめる聖霊の声にのみ耳を傾けて、神様の守りを信じて荒野の中にも踏み入ることのできる。そのような信仰を獲得しましょう。
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