久しぶりにコリント人への手紙を学びます。先週は、聖霊によって賜物を着せられるので、私たちがキリストの証人足り得る者にされると言うことを学びました。私たちにとって、教会の中で必要とされているかどうかは、とても気になるところです。自分はあの人より能力があるので必要とされているだろうと安心することもあれば、逆に能力が無いので必要とされていないのではと、不安に思うこともあると思います。私たちにとって、「賜物」はとても重要で、教会内での存在意義そのものにも思われます。しかし、それは本当に真実なのでしょうか。
今日の箇所でパウロは、私たちの教会全体が、イエス様を頭(かしら)とした一つの身体であることを強調して、コリント教会の人々に教えようとしました。何故なら、自分の能力や賜物を誇り、「あなた方は賜物が無いので、教会にとって居ても居なくてもどちらでも良い存在だ」と、他の兄姉にいう者が、教会内に少なからず存在したからです。「お前など居なくても別に大差ない」という言葉ほど、愛の無い言い草はありません。それは、嫌われて追い出されるより余程辛い言葉でしょう。そのようなことが起こらないように、神様は、聖霊を通して賜物を分配し、全体的に調和がとれるようにされているのだとパウロは教えたのです。即ち、能力のある人はそれが活かされ、能力の無い人は、新たに賜物が与えられて、見劣りがないものとされます。それはあたかも、服で着飾って身体全体を見栄え良く整えるのと同じことだと教えたのです。これによって、それぞれ賜物によって役立つので、お互いに「お前など居なくても良い」と言い合って、教会が分裂することも無くなります。これは、各々がお互いに調和して一致し、一つの目標に向かっていく為に与えられた神様からの恵みであり、憐みなのです。
これらの事を踏まえて考えれば、私たちにとっての教会の中での立ち位置は「賜物」によって保証されていると言うことになるかと思われます。では、教会の中での私たちの存在意義が、「どのような賜物を持っているか、もしくは与えられているかによって決まるのである」と言うなら、元々賜物を持っていなかった人は、本来は教会に必要無い存在であるにも関わらず、お情けで居場所を与えられた哀れな存在であると言えるのでしょうか。決してそうではありません。何故なら、「からだの中でほかより弱く見える部分が、かえってなくてはならない」と、はっきり宣言されているからです。例えば、少しウェスト周りのたるみが気になるからといって、腹部は私たちにとって必要なくなるものでしょうか。腹部が無ければ、胴と下半身が泣き別れになりますし、内臓がなくなれば私たちは生きていくこともできません。お腹まわりの見栄えだけなら、ゆったりめの服で隠せば見栄えはよくなりますが、別に服でたるみを隠そうが隠すまいが、腹部の本質的な存在意義が変わるわけではないのではないでしょうか。勘違いしてはいけません。賜物があろうが、なかろうが、元々キリストの身体に必要とされて召され、あるべき場所に配置されているのです。例え、賜物があろうがなかろうが、私たちは、神様から、この神の民、キリストの身体に「必要不可欠な存在」として、置かれているのです。
神様は、私たちに「必要不可欠な存在」だと言われ、教会の中に配置してくださいました。理由はどうあれ、神様がそう言われているのなら、私たちは「必要不可欠な存在」なのです。だと言うのに私たちは、賜物の有無や、自分達でつくった勝手な基準によって、他の兄姉を不必要だと評価したり、自分の存在価値を疑って憂い、落ち込んだりしてしまいます。ここに人間の罪があるのです。私たちは、イエス様を頭とした一つの身体です。見栄えの良し悪しに関わらず、必要不可欠な存在なのです。だから各々自信を持って、神様にお仕えしましょう。
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