『賜物の土台』
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章1〜3節
中心聖句:『たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(Tコリント人への手紙13章3節)
2024年5月5日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
パウロは、「愛」の追求こそが、自らに無い賜物を求めるより遥かに勝る道であると人々に勧めました。全ての賜物の土台には愛があり、これが無ければ、私たちの持つ賜物や功績は何の益にもならないとパウロは言います。何故、それ程までに愛が必要とされるのでしょうか。
そもそも、愛とは何でしょうか。わかるようで、わからないものの筆頭であるように感じます。聖書では、この愛を、「アガペー」という言葉で表しています。このアガペーは、本来、古代ギリシャ人、ローマ人たちが使っていた、親愛(フィレオウ)や、性愛(エロース)と全く違った愛の概念で、当時でも珍しいものでした。フィレオウは、友人や家族に向けられる親愛で、エロースは、配偶者や恋愛対象に向けられる愛のことです。親愛と性愛も違う種類の愛ですが、共通しているのは、「自分にとって価値のある人々に向けられる」と言う部分です。「愛」とは、「自分の大切な相手に向けられる特別な感情である」と、古代ギリシャの人々は考えていましたし、現代の多くの人々ですら、そのように考えているのではないでしょうか。しかし、アガペーはそうではありません。イエス様が、本来何の価値もないはずの罪びとである私たちの為に、罪の罰の身代わりとなって十字架に掛かり死んで下さった愛こそが、アガペーなのです。すなわち、愛(アガペー)とは、自分にとって価値の無い相手にも惜しみなく注がれる類の愛を差すのです。これは、現代の多くの人々にとってすら、理解しがたい概念なのではないでしょうか。しかし、この愛に根差さなければ、どのような良い賜物も、誇れるような功績も、何の役にも立たないことを、パウロは、改めてコリント教会の人々に伝えたのです。
ところで、クリスチャンは何故、賜物や功績を求めるのでしょうか。それは、御計画の中で自身の役割を果たし、神様からの賞を受ける為です(9章24節)。私たちは、神様から「忠実なしもべよ、良くやった」と褒めて頂き、天の富を与えて頂くために、自らの役目を全力で果たすのです。しかし、私たちがどのような賜物を持ち、誇るべき功績を挙げたように見えても、それが愛に根差し、それの伴った行動でなければ、決して神様からの評価を受けることはできません。何故なら、神様の御心は全て愛(アガペー)に根差しているからです。私たちは、人から褒められる為に賜物を用いて事を成すわけではありません。たとえこの世の基準では評価されず、寧ろ憎まれ迫害されるようなことになっても、私たちのとった行動が愛に根差し、それを神様が評価して賞を与えてくださるならば、私たちにとっては益となるのです。逆に、どれだけ熱意と労力を費やし、挙句、自分の全財産を人々に分け与え、命を投げ捨てて殉教するような結果になって誇っても、それが愛の伴わない、即ち御心に適わない動機や形で行われたものであったならば、神様からは何の賞も与えられず、本当の意味で徒労に終わってしまうのです。私たちの賜物や功績は、神様からの賞を受ける為にこそあるべきです。しかし、私たちはそれを見失い、自身の賜物の大きさを誇ったり、人から受ける賞賛に気をとられて、神様の御心、即ち愛という一番大切な部分を見逃してしまうのです。ここに人間の罪があります。
父なる神様も、イエス様の十字架によって、価値の無い私たちに惜しみなく独り子の命を与え、愛(アガペー)を示してくださいました。そして今も、私たちに賞を与え、惜しみなく永遠の命を与えるために、自身の御計画の中へと招いてくださっているのです。だから私たちも、神様の与えて下さる賞を全て頂き、お褒めの言葉に預かる為に全力で行動しましょう。神様の示す御心である愛(アガペー)を、各々が熱心に追い求めていこうではありませんか。
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