『母への責務』
聖書箇所:ヨハネの福音書19章25〜28節
中心聖句:『それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。』(ヨハネの福音書19章28節) 2024年5月12日(日) 母の日礼拝説教要旨
本日は母の日です。家庭のお母さま方や、教会の婦人会の方に感謝する時に致しましょう。私たちにとって、母は特別な存在です。実の母で無くとも、母親役をこなし、私たちを支えてくれる人の助力無しに私たちは大人になることができないからです。だからこそ神様は、「あなたの父と母を敬え」と、母に対し、ただ愛を受け取るだけでなく、自らの責務を果たすようにも命じられています。何より、その命令に誰より忠実だったのが、十字架のイエス様でした。
今日読んだ箇所で、イエス様は、いよいよ罪の無い完全な人間である神の独り子として、自らの役割を果たす為に十字架にかかられていました。私たちの受けるべき罪の罰の身代わりとなって死ぬために、苦しんでいてくださっていたのです。神様の御計画の中で、このような大事に並び立つ仕事は他にありません。しかし、イエス様は、この十字架による大きな御業を完遂される正に直前で、その働きを一端止められて、自らの母マリアと、愛する弟子ヨハネに対して呼びかけることを行われたのです。イエス様の十字架を見守っていたのは、イエスの母とその姉妹、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアの四人の女性、そして、イエスの愛する弟子ヨハネでした。それまで、公生涯に立たれたイエス様は、特に母マリアに対しては、「自分とあなたは何の関係も無い」そして「わたしの時はまだ来ていない」とまで言われ、迎えに来た家族のところにも戻りませんでした。そのような態度を一貫して取られていたにも関わらず、十字架の大きな働きを留めおいてまで、母マリアに話しかけられたのは不思議なことです。なぜ、イエス様は十字架のことを留めおいてまで、母を優先されたのでしょうか。
このことで私たちが注目すべきは、イエス様の公生涯の全ての出来事に於いて、母マリアを愛する弟子に委ねなければ、「すべてのこと」が完了しなかったという部分です。それまでのイエス様は、母マリアに対して、公的な立場から「何の関係も無い」という態度を一貫しておられましたが、実際には母を捨て置いたわけでも、放置していたわけでもありませんでした。イエス様は、母を弟達に委ねていたのであり、その間も母マリアがどのような立場に置かれているのか、常に気にかけられ、自身が果たすべき責務も十分に把握しておられたのです。イエス様は、本来母を委ねるべき実の弟たちが、まだ正しい信仰に目覚めておらず、人格面でも不十分で「母親を任せられない」と判断されました。その時までは、いざとなれば自身が面倒を見る事も出来ましたが、この期に及んでは、死ねば息子の責務を果たせないと判断された為、ヨハネに委ねられたのです。イエス様は、完全に罪の無い人間として、十字架の御業を完遂しなければなりませんでした。母に対する自身の責務を果たさなければ、それが成し遂げられず、結果、母への責務を最後に真っ当することで、「すべてのこと」が「完了した」のです。
母親への責務を全うすることは、イエス様の十字架という大きな御業に絶対に必要な事でした。それは同時に、私たちもまた、イエス様に倣う者として、自身の業と同時に、両親への責務も全うされなければならないということにもなります。しかし、自身の大きな仕事を達成しようとする際に、私たちは仕事を優先して「父と母を敬え」と命じられた神様の御言葉を忘れてしまいます。時には、両親を蔑ろにしてそれを達成したことを誇ってすらしまうのです。ここに人間の罪があります。私たちには、それぞれ神様から与えられた大きな役割があります。しかし、それと同時に果たすべき責務も見失ってはなりません。イエス様は、自身の責務を全うし、十字架の上で死んで下さいました。私たちは、どうでしょうか。果たすべき責務を果たし、御言葉の戒めを守って自らの業を成し遂げる。そのような信仰生活を歩みましょう。
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