『愛の本質』
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章4〜7節
中心聖句:『すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。』(Tコリント人への手紙13章7節)
2024年5月26日(日) 主日礼拝説教要旨
パウロは、13章に入ってから、私たちが追い求めるべき究極の賜物である「愛」について、コリント教会の人々に語ります。よく愛の賛歌などと呼ばれる箇所でありますが、あくまでこの箇所は、賜物を行使する為に必要な根源的要素である「愛(アガペー)」について語っているのであり、愛を褒め称えるのではなく、非常に実践的に愛によって賜物を活かす方法が教えられて居ます。私たちは、愛を用いる方法について、良く知っておかなければなりません。
具体的にパウロは、愛がどのような性質を持つかを語っています。愛はまず寛容であり、親切な性質を持ちます。寛容は、気を長く持ち、辛抱強い態度を指します。親切は、慈悲深い、即ち相手の事を「可哀そうだ」と憐れんで、何かしようとする態度を指すものです。次の、人を妬まず、自慢せず、高慢にならないとは、相手よりも、自分を優位に置こうとする態度、即ち対等に人と接さない心を自制する愛の性質を表しています。私たちの心には罪があるので、その罪の性質によって、相手を侮って見下すことに快感を覚えてしまいがちです。逆に、下に見る事が出来ない相手には嫉妬し、周囲に自分を大きく見せる為に自慢話を振りまき、実際に相手を見下して対等に扱わないような態度を取るのも罪の性質によるものなのです。これに支配されているようでは、いつまでも愛を獲得することは出来ません。礼儀に反する事を行なったり、自分のやり方を押し付けたり、苛立ったり、人にされたことを根に持ったりするのも、全ては、罪の性質から出る私たちの「自己中心」から出ていることなのです。愛は、この自己中心から最も遠い性質を持ちます。愛の本質は、イエス様の十字架に示される愛です。自分にとって価値の無い相手の為にでも、自身を犠牲にして惜しみなく注がれるのが愛なのです。
この愛を、現実に実践していこうと思えば、7節に書かれている通り、相手が自分に何をしても忍耐強く我慢しなければならず、どれほど苦しい言い訳をし続けても、相手にチャンスを与え続けねばならず、相手がどれほど愚かなことをしていても望みを捨てて見限らず、他の全ての人がその人を見捨てても、自分一人だけはその場にとどまり続けなければならない。このような姿が要求されるのです。しかし、いくら御言葉がそれを要求しているからといって、本当にそれを実践することなど私たちには出来るのでしょうか。少し考えれば、この様なことを実行すれば、私たちはあっという間に奪いつくされて破滅するしかないように思えます。世には、私たちよりもよほど悪賢い人々の方が多く、私たちが知恵によって彼らに勝つことなど出来ないからです。神様は、それも踏まえて、私たちに破滅せよと命じられているのでしょうか。
決してそんなことはありません。私たちを破滅させかねない「愛」の実践を要求されるのは神様でありますが、それを実践すべき相手を委ねて下さるのもまた、神様だからです。神様は、私たちを信じ、希望を持って、愛を実践して欲しいと願われる魂を委ねて下さいます。それと同時に、破滅させようと近づいてくる悪からも、私たちを守って下さるのです。私たちは、何も考えずに愛を実践していれば良い訳ではありません。騙されないように自衛し、蛇のように賢くその罠を抜け出なければなりません。また、試みに遭わず、悪から救われるように常に祈るべきでもありましょう。その上で尚、神様が私たちの前に連れてきて退けられないならば、私たちは喜んで、その人に鳩のように素直な愛を実践すべきなのです。私たちは、神様から信頼されて、希望をもって大切な魂を委ねられているのですから、その期待に応え、少しずつでも愛の実践を追い求めるべきなのです。私たちが最も小さな魂に施す愛の業は、正にイエス様に対する業です。だから、私たちも神様を信じ、希望を持って愛の実践に取り組みましょう。
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