『最後まで残るもの』
聖書箇所:Tコリント人への手紙13章8〜13節
中心聖句:『こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。』(Tコリント人への手紙13章13節) 2024年6月2日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
13章の最後にパウロは、「愛が何故全ての賜物に勝るのか」という議題について結論を出します。それは、愛が他の賜物と比べて、いつまでも残るので重要性が高いということです。コリント信徒だけでなく、しばしば私たちも誇ってしまう多くの賜物は過ぎ去りますが、愛は最後まで残り続けます。この愛が最後まで残り続けるとは、一体どういうことなのでしょうか。
パウロは8節から、「愛は決して絶えることがありません」と、愛の永続性について言及しています。これは「永遠の時を越えても、いつまでもそこにあり続ける」という、とても強い表現です。その表現の通り、愛は天地が滅び、新しく創造されても残り続ける賜物なのです。私たちクリスチャンは、死んだらそれまでと考えるこの世の人々と違い、自分の死後どころか、天地が滅び去った後まで視野を広げて物事を評価します。クリスチャンがしばしば、この世の人から「愚かである」と評価されるのは、新しい命すら勘定にいれて行動する様が、肉体の命こそ全てとして行動する世の人々のそれと、決定的に食い違うからです。この世で持て囃される知識、暴力、財産、権力は、我々クリスチャンから見れば、天地が新しくなった際に無用の長物と化してしまう詮無いものです。勿論、この世で生きる際にとても役に立つものではありますが、だからと言って我々にとって、それらが人生の全てを費やしてで追い求めるほど重要性が高いものになるかといえば、そうはなりません。それは、教会で尊ばれる預言や異言の賜物についても同じです。預言や異言の賜物も、神様と共に過ごすようになれば廃れてしまいます。本人が目の前にいるのに、伝言を頼む人など居ないからです。同じ理由で、聖書の知識や伝道の能力も、また技術すらも、新天地では神様が目の前にいるようになるので、最早必要なくなるのです。だから、やがて不要になる賜物を誇ったところで、何の意味もありません。
しかし、その一方で、この天地が滅び去って全てが新しくされた後も、信仰、希望、愛の三つは残り続けるとパウロは宣言します。愛に加え、信仰と希望は何故残りつづけるのでしょうか。ここでパウロが何を言いたいのかいえば、たとえ天地が新しくなっても、神様との関係は永遠に続くということです。私たちと神様の関係は、イエス様の再臨によってある種の完成を見せますが、だからといってそれで終了とはなりません。再臨は、私たちにとっての終わりではなく、全ての始まりだからです。私たちは、神様と顔と顔を合わせる時に、今まで知らなかった神様の全容を知ることになります。しかし、それを知った上で新しく始まる関係というものもあるのです。私たちは、神様と顔と顔を合わせるようになって、そこから更に神様と共に、新しい体験を重ねていきます。その新しい生活の中で、私たちは神様のことを更に信頼(信仰)し、神様との新しい未来に期待(希望)をもって歩み続けます。その歩みが、永遠の時に至るからこそ、それが永遠の命の道となるのです。その関係の中で私たちと神様を繋ぐ大切な要素こそが愛です。私たちは神様に愛され、また愛しながら、愛の交わりの中で永遠に過ごします。だからこそ、私たちにとって愛こそが、最後まで永遠に残り続ける最も大切な賜物なのです。
私たちが、本当の意味で「愛」を行動に移して実践しようとする時、その愛は常に神様との関係の中で振るわれるものであることに気づかされます。私たちはイエス様と父なる神様の愛の中で取り扱われ、また私たちもその愛に、愛によって応答するので、その愛をどのような相手にも振るうことが出来るようになります。私たちは、愛を振るう相手を見てそれを実行するのではなく、神様こそを見上げ、その交わりと関係の中で愛を実践していくことが出来るのです。愛の賜物は、永遠の時にまで至ります。この賜物を追い求め、実践し続けましょう。
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