『自信を律する目』
聖書箇所:Tコリント人への手紙7章36〜38節
中心聖句:『ですから、処女である自分の娘を結婚させる人は良いことをしており、結婚させない人はもっと良いことをしているのです。』(Tコリント人への手紙7章38節) 2023年5月7日(日) 主日聖餐礼拝説教完全原稿
※詳しい聖書の解説や、別訳選定の理由については、ホームページに掲載しています。どうぞご覧ください。
本日の聖書の箇所は、新改訳2017の聖書本文ではなく、注釈に書かれた別訳に基づいて読み進めていきます。今日の箇所は、父親が自分の娘の結婚について、危急の際に差し止め続ける事が正しいか否かについてが問題にされています。聖書が書かれた当時の時代、結婚の決定権、主導権を持つのは、花婿でも花嫁でもなく、花嫁の父親でありました。だからこそ、花嫁の父親は、自身の娘が、正しい信仰生活と、結婚生活を送る事が出来るように指導し、管理する大きな責任があったのです。危急の事態の中では、先週申し上げた通りに、可能な限り現状を変更せず、平常に与えられた賜物を大切にしながら、苦難を耐え忍ぶことが求められます。
指導する義務がある父親にとって、自身の娘を結婚させないと判断することは、苦渋の決断であったと思われます。そして、「一度決めた以上は、その判断を覆すまい」と意固地になる父親が、パウロへの質問として挙げられるぐらいには、どうやら多かったようであります。
しかし、いくら「危急の際の現状維持」が正しい事であったとしても、無理を続ければ、どこかに必ず歪みが生じてきます。花婿と花嫁が、親の目を盗んで逢引したり、婚前交渉を行なったり、時には駆け落ちしたりなど、結婚したがる二人を無理に引き離せばそのような事態が起こることは、簡単に予想できることです。そうでなくても、父親への反発から、生活態度が悪くなったり、以前のような「品位ある生活」が送れなくなるのは避けられないことでしょう。
それ故、パウロは、「自身の娘たちの品位ある生活が崩れるぐらいならば、決断を覆して娘を結婚させたところで、罪となるわけではないのだから、若い二人の望むままに結婚させてやるように」と、頑なになっている父親達に対して、諭すように助言したのです。
指導する立場にある人は、その指導が正しいかどうかだけではなく(勿論、正しければ最高です。問題なく結婚させずに指導しきれるなれば、それは最善でしょう)、指導する相手の「品位ある生活」と「主への奉仕」が、保たれているかどうかについても、注意を払わなければなりません。指導によって躓きが起こるならば、それは本末転倒ですし、そのような指導を行っていれば、指導者に権威を与えられた神様の御名をも、穢すことになってしまうからです。
また、指導される立場にある人も、自身の「品位ある生活」が正しく保たれているかどうかについて、決して自分自身で判断をしてはなりません。自分の信仰生活が守られているかどうかを判断するのは、自分ではなく、周囲の人々であり、また指導する立場にある人だからです。
もし、それを履き違えて「自分はちゃんと出来ているから大丈夫」と思い上がれば、私達の信仰は、途端に独善に陥ってしまいます。その結果、間違いを指摘されても頑なに受け入れず、責任転嫁して他人を裁く偽善的な信仰へと、私たちは転がり落ちていくのです。それは、イエス様の厭われるファリサイ人や律法学者達の、偽善的な信仰そのものではないでしょうか。
神様は、そうならないようにと、私たちにキリストの身体である教会を与え、信仰の先輩や指導者、また教師を遣わして、私たちの信仰が歪まないようにと、常に注意を払い指導して下さっています。しかし、そのような指導を受け入れずにはねのけ、思い上がり、自分の判断を優先させてしまうところに、人間の罪があるのです。私達自身を律する目は、自分の外側にこそ用意しなければなりません。私たちの身の回りの頼もしい信仰の先輩たちを良く頼り、相談し、祈り、考えながら、正しく道を選びとって、神様にお仕えしていこうではありませんか。
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