『野の花の装い』
聖書箇所:ルカの福音書12章27〜31節
中心聖句:『今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、どんなに良くしてくださることでしょう。』(ルカの福音書12章31節) 2024年6月9日(日) 花の日礼拝説教要旨
花の日になりました。花の日は、アメリカで始まったキリスト教の行事です。夏の花が咲き始める六月の時期に教会に花を持ち寄って飾り、礼拝後にその花を持って病気の人を訪問し始めたことから、この日を花の日と呼ぶようになりました。日本では、御老齢の方や日頃お世話になっている地域の方を訪問したりすることもあります。花を持って様々な人を訪問し、これを贈ることは、神様の御心に適うことです。花そのものには大きな価値はないかもしれませんが、神様が装われたこれを贈られる時、私たちの魂にはひと時の安息が訪れるからです。
元々、花の日に持ち寄られる花は、購入品だけでなく、庭や野原から摘んで飾られる花も多かったと思われます。植物は人間の手によって装飾されるものでも無ければ、(野生のものなら特に)誰が手間暇かけるでもないというのに、自然と美しい花を咲かせる不思議な存在です。これらの装いを行われるのは、常に神様であるとイエス様は教えられました。野原に生える雑草などは誰にも注目されることなどないというのに、神様はその雑草一本一本すらも把握され、ソロモン王の豪華な衣装以上の美しい装いをもって、今日も丁寧にそれらの草花を飾られ続けているのです。このような、自分にとって何の価値もない存在にすら注目し、その御手の業を惜しみなく注がれる性質こそが、神様の愛そのものなのであります。天地を創造し、全宇宙を統べ治められている父なる神様は、私たち一人びとりどころか、草木の一本という有象無象にすらも愛をもって接して下さります。例えその行く末が悲惨なものであったとしても、道中で多くの御業を起こして、その足取りに彩りを与えようとしてくださるのです。
私たちは、しばしば不幸な目に遭い続けるので、中々そのような神様からの彩りを実感しづらいかもしれません。しかし、神様の愛の業は、その存在を知らない人や、知って尚、罪を犯し続ける罪びとに対してですら、陰に日向に惜しみなく注がれ続けています。私たちは、例えだれであっても、人生の中で多く不思議な体験をするはずです。「事実は小説よりも奇なり」の言葉の通り、偶然命が助かったり、不思議と窮地から救いだされたりするような体験は、長く生きれば、誰であれ一度はするのではないでしょうか。そのような出来事を体験した時、私たちの状態は「どう」だったでしょうか。神様に愛されるに相応しい、価値のある「清い潔白な私たち」だったでしょうか。決してそうではなかったはずです。むしろ、罪を犯し、神様に忌み嫌われる行いをしてはいなかったでしょうか。そうであるにも関わらず、私たちは救い出されました。大前提として、神様は全知全能ですが、私たちを態々救い出す義務も義理も負われていません。にも関わらず、私たちが救い出されたのは、その一方的な愛によるのです。
私たちは野の草花よりも、遥かに神様から愛されているとイエス様は言われました。何故なら、雑草は抜かれて炉に投げ込まれて終わりますが、私たちは罪の故に裁かれる永遠の炉に投げ込まれないように、その身代わりとなって死んで下さったイエス様の十字架によって助け出されているからです。故に、私たちは花の日に贈られた美しい花を見る時、自分自身が受けた滅びからの救いによって、「自分はこの花よりも神様から愛されているのだ」と思い、平安を得られるのです。この神様の愛の中に留まり続ける時にこそ、私たちは魂の安息を得られます。だと言うのに、私たちはいつも神様との関係に背を向け、その他の何かを追い求め、人生を浪費してしまいます。ここに人間の罪があるのです。私たちは、野の花より神様から愛されているのですから、その交わりの中に留まれば、必要は全て神様が備えて下さいます。これを信じることが出来るでしょうか。神様の愛を受け入れて、その交わりの中に留まりましょう。
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