『父の性質』
聖書箇所:ルカの福音書11章9〜13節
中心聖句:『それならなおのこと、天の父はご自分に求める者たちに聖霊を与えてくださいます。』(ルカの福音書11章13節) 2024年6月16日(日) 父の日伝道礼拝説教要旨
本日は、父の日です。私たちの為に、普段から陰に日向に生活を守って下さっているお父さんや、教会で奉仕する壮年の方々に感謝する時と致しましょう。今日の箇所でイエス様は、普通の父親ならば、例え悪人でも共通で持っているその性質に触れ、この天地を造られた神様が私たちにどのように向き合われているかを明らかにされました。「神様なんて、何もしてはくれない」と考える方は、世の中に多く居られるかもしれません。「神頼みが聞かれない」と感じることもしばしばです。神様は、実際私たちにどのように向き合われているのでしょうか。
イエス様は、この天地を創造された父なる神様の御性質を、端的に「三つの要求をせよ」と命じる形で教えてくださいました。それこそが、9節の「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という三つの行動です。「求める者には最善を、探す者には真理を、門を叩く者は、歓迎をもって迎えて下さるのが父なる神様であるのだから、貴方達は常にこれを要求し続けるように」と、イエス様は教えられたのです。この天地を創造された父なる神様は、私たちや全ての被造物に対して、決して無関心な方ではありません。私たちがどのように価値が無い、つまらないと考えているものも全て(勿論私たち自身も!)、神様にとっては注目に値する大切な被造物なのです。人間が価値が無いと判断する全ての存在に対して、父なる神様は惜しみなくその愛情を注がれます。誰も居ない砂漠に雨を降らせ、そこに萌え出る雑草の一本一本にすら、綺麗な花を装われて楽しまれるのが父なる神様の御性質なのです。もし、私たちが、神様からの恩恵を受け取ることが出来ていないように感じるならば、それは私たちに存在する自由意思の故です。私たちが、自分自身の事を自分で決断し、決めることが出来るのは、神様から与えられた自由意思の賜物によります。神様は、私たちの自由を尊重して下さるので、私たちが「欲しい」と明確に求めない限り、それがどれだけ良いものであったとしても、独善的に押し付けることをなさらないのです。故に、「求めなさい」とイエス様は命じられたのです。
勿論、私たちが実際に求めたところで、その全ての祈りがそのまま叶う訳ではありません。天地を造られた神様は、その名の通り父なる神様でありますから、子供である私たちが求めるままにではなく、最も良い形でその恵みを施して下さるのです。子供の我儘の言いなりになるのは良い親ではありません。子供が求めるものが悪ければ「否」と言ってたしなめるのは父親の義務ですし、子供の要求が実際の必要とかけ離れている場合、求めているものとは違うものを与えることもあるでしょう。しかし、例え「否」と願いを退けるにしても、別の形で願いをかなえる判断をするにしても、親がそれを行うのは、ひとえに愛する子供が最善の結果を得られるようにと考えるが故にです。例えそれが、世間から恐れられるような罪びとであったとしても、その法則には何ら変わりはないのです。父なる神様もまた、私たちの最善を常に願って下さいます。それ故に、私たちが求めるならば、父なる神様は直ぐにでも罪の赦しを与え、聖なる霊を与え、永遠のいのちの交わりの中に迎え入れて、最良のものを与えて下さるのです。
「永遠のいのち」は、永遠に続く、神様と共に歩む活き活きとした人生を指す言葉です。父なる神様を受け入れるなら、過不足なく最善のものが与えられ、心穏やかに顔を上げて歩むことの出来る生活が、今日からでも始まり、明日以降も続き、この肉体が死んだ後にも永遠に続くので、永遠の命なのです。その交わりに私たちを招く為に、私たちの罪の罰の身代わりとして、父なる神様はイエス様を十字架に架け、全ての罪の罰を引き受けて下さいました。これに私たちはどう応答できるでしょうか。十字架の救いを受け入れ、父なる神様と歩みましょう。
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