『神から出た者』
聖書箇所:Tヨハネの手紙4章1〜6節
中心聖句:『私たちは神から出た者です。神を知っている者は私たちの言うことを聞き、神から出ていない者は私たちの言うことを聞きません。』(Tヨハネの手紙4章6節) 2024年6月23日(日) 主日礼拝説教要旨
私たちは、日々多くの教えに学ぶことで、霊的に成長していきます。子供が大人になることに是非を問わないように、私たちの霊にも、成長が必要不可欠だからです。しかしその過程で、私たちが様々な教えや思想に触れると、自身の霊的立ち位置を見失ってしまうこともしばしばです。そのような時に私たちが立ち戻るべき信仰の原点は、一体どこにあるのでしょうか。
このTヨハネの手紙は宛名が無いため、多くの諸教会に共通の内容で送られた書簡であると考えられています。何故なら当時は、そうしても全く可笑しくないぐらいに、多くの諸教会が、一つの問題に悩まされていたからです。それは、グノーシス主義者と呼ばれる、この世的な思想を教会に持ち込んで、兄姉を躓かせようとする反キリストの存在でした。彼らは折々で、「肉体は汚いものだから、神の御子が肉体を纏って生まれてきたなんて信じられない」とイエス様の誕生や存在を否定し、「肉体は汚いものだから、どれだけ不品行を重ねて汚したところで、魂まで汚れはしないから問題ない」と、人々に不品行にふけるよう勧めるようなことを平然と行う人々でした。耳触りの良い言葉で使徒が教えたことを捻じ曲げてあいまいにし、イエス様の実在に対して真っ向から対立したのです。その混乱の余波は一つの教会の中だけで納まりきらず、同じ内容の手紙を複数、方々に送らなければならない程でした。しかし、この事に関わらず、世の思想が教会に入り込んできて混乱を巻き起こすことは、歴史上何度も起こってきたことです。最近でも、LGBTの問題や同性婚の問題など、多くの牧師や兄姉を悩ませる主義主張が教会の中に入りこんできています。しかし、問題の本質は、入り込んでくる思想の内容やその是非ではなく、その騒ぎに乗じて秩序を混沌に巻き込もうと、即ち「あいまい」にしようと、多くの反キリストの霊や偽預言者が画策することなのです。幸い、この手紙を読んでいた当時の兄姉の中には、その甘言に騙されないで踏みとどまれる人が多く存在したのですが、彼らは混乱しており、決して揺るがされない信仰の基、即ち原点を求めていたのです。
そのような兄姉に信仰の土台をもう一度据える為に、ヨハネは、霊を見分ける一つの判断基準を教えました。それこそが、「人となられたキリストを主と仰いでいるかどうか」と、「使徒の教えに反対せず従っているかどうか」を確かめて吟味することです。子なる神であり、天の父なる神様の大切な独り子である御子キリストが、神としての形を捨てて人となり、この世に生まれて下さったからこそ、「イエスさま」が私たちの前に現れたのです。「イエスさまを信じる」とは、即ち、人となられたキリストを信じることなのです。そして、使徒の教えに従うとは、十二弟子に教えられたイエス様のみことばに従うということです。現代においては、私たちはこの使徒の教えのことを、「新約聖書」と呼んでいます。つまり、イエス様を信じ、聖書の御言葉の命令に従うことが、私たちクリスチャンの原点であるのです。誰がどのように言葉を尽くそうが、如何に耳触りが良かろうが、聖書の御言葉に反対し、イエス様を信じることを拒絶するなら、その教えも、霊も、人も、天の父なる神様から出たものではないのです。
「イエス様」を信じ、御言葉を信じてその命令を実行することは、私たちの大切な原点です。洗礼によって聖霊を受け、神様に仕えて行う人々の全ての業の中で、これに反対するようなことは起こり得ないはずだと聖書は宣言しています。しかし、実際にはイエス様の存在を疑い、御言葉が間違っているのではと疑ってしまうこともしばしばではないでしょうか。ここに人間の罪があるのです。私たちは、イエス様の御誕生と、その十字架による救いが真実であると証する御言葉に、確信を持ち続けているでしょうか。イエス様を信じ、御言葉に従いましょう。
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