『教会の成長を求める』
聖書箇所:Tコリント人への手紙14章1〜12節
中心聖句:『教会を成長させるために、それが豊かに与えられるように求めなさい。』(Tコリント人への手紙14章12節) 2024年7月7日(日) 主日聖餐礼拝説教要旨
14章に入ってパウロは「コリント騒動」の中心である「異言問題」にメスを入れていきます。この話題は、Tコリント人への手紙で取り扱った全ての問題の主犯である、「異言を誇るグループ」、即ち自称「預言者」や「霊の人」(37節)を中心とするグループを非難する目的で展開されています。この「異言を誇るグループ」こそが、礼拝を妨害し、教会の中を混乱に陥れていた中心勢力であり、彼らの誇る「異言もどき」は否定されなければなりませんでした。
「異言」とは、一般的には人に判別できない形で意味のある事を語り、聞いている人に判らない形で、祈ったり、賛美したり、教えたりする為の賜物です。これはパウロ自身も、聖霊の賜物に挙げている通り(10節)、実在する物でありました。しかし、コリント教会の中で一部の人々が宣伝していた「異言もどき」は、明らかに本物の異言ではありません。何故なら、彼らの「異言もどき」は、そもそも意味が存在しないので誰にも解くことができず、語っている本人たちですら、自分が何を語っているか判らない無益なものだったからです。2節の「だれにも理解できませんが」という言葉は、周囲の人間だけでなく、「神様にすら理解出来ない」という意味で語られています。「そもそも意味が存在しないのだから、神にすら意味は見出せないのである。そんなものは聖霊の賜物ではない」と、パウロは痛烈に批判しているのです。
そもそも、聖霊が「御霊の賜物」として分配する種々の賜物は、全てが「愛(アガペー)」によって運用されて、初めて役に立つという前提があります。これは13章までに学んできたことです。また、愛は「礼儀に反することをせず、自分の利益を求めない(5節)」のですから、「自ら(だけ)を成長させる(4節)」ことを良しとする、それも、各々騒ぎ立てて礼拝を妨害するような賜物など、聖霊の賜物の中に存在するはずがないのでした。賜物は各々に分かれて分配されるものであるのに、こぞって皆が「自分は持っている」と主張しあっていたことからも、これが聖霊の賜物でないのは明白です。故にパウロは、「全ての人が異言で語ること」を願って、それら「異言もどき」が偽りの賜物であることが明らかになるよう望んだのでした。
「本物の異言」がどのようなものかは次回に、本来どのような役目を持つ賜物なのかは、次々回語らせて頂きますが、今日、覚えて頂きたいことは、「聖霊が与える賜物は、全て教会を建て上げる為に有益に働くものとして、神様から提供されている」ということです。世の中では、現代でも種々の霊的な現象が起こっています。トランス状態に陥るような現象が、教会の中ですら無作為にもてはやされることもしばしばです。しかし、それら全てが教会の建て上げに役立つわけなど無いのですから、私たちは、霊的な賜物については注意深く吟味せねばならないのです。そもそも、霊現象に浮かれてそれを追い求めるような熱狂自体に、パウロは否定的でした。故に「その無駄な労力を、教会成長に費やしなさい(12節)」と勧めたのです。
パウロは、教会を建て上げる為に各々が預言(即ち教え。現代ではカテキズムとも言います)を語ることを望みましたが、それに関わらず、私たちは何に於いても教会全体が成長していくことを追い求めるべきです。そうでなければ、私たちの教会はこのコリント教会のように、不詳の霊(即ち悪霊)がもたらす、「御霊の賜物もどき」に熱狂してしまい、不品行が横行し、礼拝は「イエスは呪われよ」と叫ぶ人々によって妨害され、聖餐は廃れて執行されず、信徒全体が派閥に分かれて争うような惨状になってしまうのです。神様は、聖霊様を通して、私たちの教会が成長できる為に賜物を与えて下さいました。私たちはこれにどう応答できるでしょうか。霊的現象を熱狂して追い求めず、教会が建て上げられることを喜び、追い求めましょう。
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