『霊と知性で祈る』
聖書箇所:Tコリント人への手紙14章13〜19節
中心聖句:『それでは、どうすればよいのでしょう。私は霊で祈り、知性でも祈りましょう。霊で賛美し、知性でも賛美しましょう。』(Tコリント人への手紙14章15節)
2024年7月14日(日) 主日礼拝説教要旨
パウロは、御霊の賜物である「異言」の存在について12章ではっきり認めた後、コリント教会にはびこる「異言もどき」が、全く別物であることを14章で指摘します。聖霊の賜物は、教会全体の益になり、かつその働きについて他の兄姉が心から「アーメン」と同意できる働きを行う筈です。何故なら、それは愛によって用いられるものだからです。話している本人にすらその意味が解らず、他の兄姉を困らせるような「異言」は、本物のそれではありえません。
では、「本物の異言」はコリント教会に存在しなかったのでしょうか。それは未知数でした。何故ならパウロは、実際に現地でそれらを目で見て、確認した訳ではなかったからです(もっとも、「クロエの家の人々(1章11節)」からの伝聞だけでも、殆どの「異言」が偽物であるのが判断できるほど教会の状態は酷かったのですが……)。そこでパウロは「本物の異言」を見分ける為に、「それを解き明かせるように祈ること」を人々に勧めました。聖霊の賜物は、「教会全体を成長させ、その徳が立つように、愛によって運用される(できる)もの」という大前提があるので(12〜13章)、本物の賜物ならば、その全てが「その運用の推移を、少なくとも本人は把握でき」、「本人の意思によって、完全に掌握できている」はずです。そうでなければ、自分の賜物が愛によって用られているかどうかを本人が知る事はできませんし、それを追い求めることも出来ません。従って「本物の異言」もまた、本人が自分で解いて何を言っているのか説明出来るはずなのです(他の人の異言を解く賜物はまた別です)。だから、「万が一、本物の異言の賜物を持ちながら、その真偽の判断に苦しんでいる兄姉が存在するなら、それを解き明かしてその賜物を確認出来るよう、まず神様に祈るが良い」と、パウロは薦めたのでした。
それを祈った上で、まだ自分が口にした異言が、自分で解き明かせないというのならば、それは最早、異言ではありえません。聖霊でも自分の霊でもない、出所の判らない不詳の霊(すなわち悪霊)の仕業であります。神がかりとなった人を通して何らかを喋らせる「口寄せや霊媒の霊(Tサムエル記28章9節)」や、「占いの霊(使徒の働き16章16節)」は全てこの類であり、しかも異教では珍しい存在でもありません。これらの霊は、憑依した人間の口を用いてなんらかを喋らせて私たちを恐れさせますが、それが本人の進歩に役立つようなことは決してありません。喋らせる霊と、喋る人の理性は無関係だからです。だからこそ、自身が進歩し、それによって教会を成長させる為にも、全ての賜物は、自分の魂に加えて、知性によってもコントロールされる必要があるのです。そうでなければ、異言は勿論、私たちの賜物は、神様から与えられている「本来の役割」すら果たせなくなってしまいます。これを話しているパウロもまた、(恐らくは本当に偶々)本物の異言の賜物を与えられている一人でしたが(18節)、常に共に居たルカ(福音書や使徒の働き記者)が一度もそれを記述しなかった程に、これを用いませんでした。異言本来の「役割」を良く理解し、知性によってこれを制御していたからです。
異言に関わらず、全ての賜物には使いどころがあります。そして、全ての賜物が神様のご計画の役に立つ場面で用いることができるように、聖霊によって分配されているものだということを、私たちは決して忘れてはならないのです。しかし、私たちの心の中には罪があるので、自分に与えられた能力や持ち物が、自身の価値を担保するものであると勘違いして、これに熱狂してしまうこともあります。ここに人間の罪があるのです。正しい場面で、神様の為に用いられてこそ、私たちの賜物は本来の輝きを見せます。常に自身の賜物を慎重に取り扱い、神様の為に用いることが出来るように、霊に知性の伴った祈りをもって信仰生活を歩みましょう。
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