『私達の間に居られる神』
聖書箇所:Tコリント人への手紙14章20〜25節
中心聖句:『こうして、「神が確かにあなたがたの中におられる」と言い、ひれ伏して神を拝むでしょう。』(Tコリント人への手紙14章25節) 2024年7月28日(日) 主日礼拝説教要旨
異言について取り扱う説教も、これで三回目になります。これまでパウロは、「本物の賜物は教会全体の益になる為に用いられるものである。皆が損をして一人だけ得をしたり、また全体の迷惑になったりすることが、聖霊やその業によって行われることはない」ことを説明し、コリント教会で皆を騒がせている「異言もどき」が、聖霊による賜物でないことを教えました。賜物には、各々趣旨や目的があり、教会全体の益となる使いどころも必ず存在します。それは、私達の間に居られる神様が、各々の賜物を用いて御計画を立てて下さっているからです。
パウロは、コリント教会の信徒達に対して20節で、「聖霊が与えて下さる賜物にどのような使いどころがあるのかを考えもせず、持っているものを自慢したり、持っている人を羨んだりするような幼稚な者となってはいけない」と戒めました。子供は、何でもおもちゃを欲しがりますが、そのおもちゃを手に入れてどうするのかまでは考えません。それ故、手に入れたら満足して、すぐに飽きてしまいます。コリント教会でもその殆どが、自身の異言を自慢したり、他の人の自慢に嫉妬したりしていました。異言の賜物について、その趣旨を考えもしなかったのです。その有様をパウロは、「おもちゃを取り合う子供と何が違うのか」と指摘しました。
では、異言の賜物は、どのような趣旨で私達に与えられるのでしょうか。パウロは、この箇所では特に、異言の賜物が「信じていない者たちのためのしるし」だと宣言しました。これは、「未信者が信仰を獲得する為」ではなく、「頑なな人が、そのまま信じずに滅びてしまうという事柄が決定される為」であるという意味です。イエス様が、毒麦のたとえ(マタイ13章24-30節)で宣言された通り、世の終わりでは、信じて救われる人と信じず滅びる人が完全により分けられます。信じている人は更に信じて良いものを得、信じない人は今持つ信仰すら取り上げられて、完全に信じない者とされてしまうのです。そこには言い訳の余地もありません。
勿論、これが異言の効能の全てではありませんが、パウロは、そのような役割も異言が持つことを、一例としてコリント教会の人に紹介しています。部外者が教会の外から入ってきた時に皆が異言を話していたら、部外者の人々は「みんなどうかしている」といって外に出て行ってしまいます。これは悪いことのように思われますが、もしその部外者が、非常時に私達の信仰を告発しようと入ってきた人々であったとしたなら、教会は守られることにならないでしょうか。異言だけでなく、イエス様の「たとえ話」や、使徒ヨハネの「黙示」など、困難の時代に教会が守られる為に神様から与えられている賜物も、私達の間には存在するのです。
だからこそ、「今はそのような非常時ではなく、平時なのであるから、異言の出番は無い」ことを、パウロは言いたかったようです。平時には、異言でなく預言を用います。そうすれば、その御言葉の取次ぎによって、やってきた部外者の人の心の内側が神様の前に明らかにされ、棚上げしていた自分の悪い部分から目がそらせなくなり、決断を迫られます。そして、悔い改めのしるしが、その人の内に起こるのです。悔い改めのしるしが心の内に起こった人は、それが到底人間の仕業でないことに気づきます。そして、預言の賜物を用いる人々を通して、自身に働くより大きな存在に気づき、恐れ、信仰を持つのです。その時、その人は私たちがいつも宣言している通りに、天地の造り主である父なる神と、救い主イエスが、私達の間に居られることを告白するでしょう。その趣旨すらも理解せず賜物を自慢したり、他人の自慢を妬んだりしているなら、それが明らかな人間の罪なのです。私たちはどうでしょうか。自身の持ちうる全てが、神様のものであることを改めて弁えて、謙遜に神様にお仕えしていきましょう。
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