『私たちの内にある喜び』
聖書箇所:ヨハネの福音書15章1〜11節
中心聖句:『こうして、「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたが喜びで満ちあふれるようになるために、わたしはこれらのことをあなたがたに話しました。』(ヨハネの福音15章11節)
2024年8月4日(日) 主日礼拝説教要旨
梅雨も明けて、すっかり真夏になりました。この教会でも、夏らしく庭先にあるいちじくの木が、次々と身をつけて色づいているところです。今の時期から秋に向けて、収穫が始まっていくのが葡萄です。巨峰やデラウェア、マスカットなど、葡萄にもいろいろありますが、その房が大きくなるほどに手入れも難しく大変であるということは、皆さんご存じでしょうか。
今日の箇所では、イエス様がご自分のことを葡萄の木に例えてお話をされています。これは、なぜ十字架の苦しみに向けて、自分が従順であろうとしているのかについて、弟子たちに語られるためでありました。イエス様は、私たちの罪の罰の身代わりとなって、十字架の上で死んでくださいました。その苦しみは想像を絶するものであり、当時のローマさえ、その残酷さの故に、一部の反逆者にしか適用しなかったほどの恐ろしい刑罰でありました。それに向かって、抵抗もせず、また逃げもせずに従順に進んでいくというのは、当時は勿論、現代ですら多くの人が理解に苦しむ態度であったと思われます。虚栄心や功名心で引き受けられる程、この苦しみは生易しいものでもありません。イエス様は、恐れながらも十字架にかかろうとされている理由について、ご自身がこの天地を作られた父なる神様を愛しており、心の内に喜びがあるからだとお話になられました。その喜びを言い表す為に、また、その喜びを私たちも分かちあって欲しいと願われるが故に、イエス様はぶどうの木にたとえてこれを話されたのです。
八月に収穫する葡萄ですが、大きな収穫を得るためには、一〜二月の寒い時期に剪定を行わなければなりません。その時期を逃すと、葡萄の枝を切った傷口から樹液が流れ出して木が枯れてしまうからです。特に、大きな実をつけるタイプの葡萄の木の枝は、放っておくと伸びた後、互いに干渉して実をつけなくなってしまう為、勢いのある枝を2〜3本選んで、他の枝は切り落とさなければなりません。実も5〜10個ほど残して、ほかのものは落とさなければならず、それらの選択は至難の業なのです。しかも、剪定を行った後も、寒い中で丁寧に切り口を薬剤処理しなければなりません。葡萄の幹は非常に細く弱いので、ぶどう棚をつくって支柱に固定し、倒れないように手を尽くします。農夫の葡萄の木への愛が深ければ深いほど、これらの作業は、葡萄の木を守るために可能な限り極寒の中で行われるのです。もし葡萄の木が、農夫の作業をよく見ていて、彼が自分を愛して大きな犠牲を払ってくれているのを知っているならば、この葡萄の木もまた農夫を愛して、多くの実をつけて報いたいと思うのではないでしょうか。イエス様はその思いと喜びを、「あなたたちも枝となって、幹である私と分かち合って欲しい」と招かれているのです。もし幹だけでなく、枝もまた農夫を愛しているのならば、枝も幹と思いに同調して、受け取った栄養を託された実に注ぎつくすはずです。あなたがたも是非そうであってほしいと、イエス様は私たち一人びとりに話しかけられているのです。
枝は、先端のどうでも良い部分に見えますが、実は最も大切にされている部分です。幹も農夫も、栄養を与え、丁寧な手入れを施してと、その労を惜しみません。実際に、私たちもまた、イエス様から愛され、父なる神様から丁寧に訓練を受けてと、多くの期待によって恵みを与えられているのです。極寒の中で惜しまず労を費やす農夫のように、父なる神様もまた、私たちに為に多くの痛みを喜んで受けてくださっています。もしそれに気づくことができるならば、私たちの内にもまた、イエス様と同じ愛と喜びが芽生えるのです。自身を伸ばすためでなく、大きな実をつけて栄光をお返しできるように、自らを捧げて父なる神様にお仕えしましょう。
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